<出典情報>
初出 『大杉乃緑陰』(一鍼会、1996年)
再掲 『医道の日本』第626号(1996年)・第627号(1996年)
再掲 丹澤章八著、宮川浩也編『鍼灸の風景 ~丹澤章八先生 講演・随筆集~』(丹塾、2014年)

山下先生とわたし

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丹澤章八
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1997年
彫塑
基礎麻酔が応分に効き始め、意識の一隅がトロトロ溶けだしてはいたが、ストレッチャーに寝かされた私の頭の先で手術室の自動ドアが軽くキシミながら左右に開き、ここからは病院のなかでも人の生き死にがなかば人の手に委ねられる領域に運び込まれたことを知覚してからあとは、つい今しがた、電話で知らせを受けた山下先生の訃報のことが、溶け出したところとは別の隅から泡立つ波となって瞬く間に脳の地平に拡がっていった。
「どうしてよりにもよって今日旅立たれたのか……」
先生が三度目の発作で倒れて意識を失われてから二か月半、一週間毎に拝見するお姿は日を追って憔悴の度を深めておられたので、万が一の報せは学会出張中の列車にまで届くように手配しておいたのに、「よりにもよって……」、身勝手な哀惜と感傷と、その上、先生のお別れの席にも列席できない苛立たしさとがその波のうねりを一層高めた。
というのも、希望的観測をよそに五年間の間に六度までも手術台に乗らなくてはならなくなった心底に、抗しきれないさだめに対するやりきれないやや自棄的な空虚さがあったためかも知れない。
「気分は悪くありませんか」若い麻酔科医の顔が横から覗いた。
「別に…… ありがとう」
それ以上答えることもないまま目をつむると、暗いまぶたの奥にフト若き山下先生の顔が見えた。
手術室、白いタイルで床と四面を覆われた病院の一角、極度の緊張が張り詰める空気の中で、音といえば手術器具を出し入れする鈍い金属音とそこにいる人々の間で時折かわされる短いフレーズの、押し殺した口調の早口の会話しか聞こえない空間、そんな空間―雰囲気―の中に、若い厳しい麻酔科医としての山下先生の顔がいつもあった。昭和二十六年、国立東京第一病院(現国立国際医療センター)でインターン修業中の、先生より十歳若い若きころの私の、その雰囲気と一緒に脳裏に刻まれた先生の映像、今はその映像を呼び起こす格好の場所に置かれているせいか、まぶたの奥のお顔はその表情までもが新鮮に浮かび上がった。
背が高くガッチリタイプの先生は指導医としてもその存在感はかなり大きかった。新米の我々は手術室ではただ従うしかなかった。インターンを通じて少なくとも私にとって山下先生はこわい指導教官の一人であった。
理科系の人間の中には時にすぐれて演劇に興味を持つ者がいる。インターン同期にも数人この種の仲間がいた。国立東京第一病院はもと陸軍第一病院である。傷病兵慰問のために使われる舞台付きの講堂が独立して中庭に建っていた。仲間の目はそこに集まった。その夏、四人の仲間が語らってチェーホフの「熊」をその舞台で演じた。
インターン始まって以来の非医学的文化的行為に病院中の職員が目を見張った。その中でこの文化的行為に遅れてならじと、その歳の暮れの忘年会パーティーにフランス現代劇を引っ提げて外科医局演劇部の旗揚げ公演があった。その音頭取りがほかならぬ山下先生である。勿論、主演の一人として先生も立派に役柄をこなし観衆は沸いたし、そもそも台本選定に当たって相談を受けたのは私であった。これが先生とのお付き合いの原点であり、ふりかえって文化を接点としていることに意外性がある。先生の晩年、テーブルの上に四、五本徳利が立ちならぶ頃合いになるとその当時の話になり、破顔して追想されることがしばしばであった。
そして傍らで私は、思い出を共有できる幸せを幾度となく味わったものである。しかし、医師になって京都府立医大の研究科に進むまでの第一病院での数年間は、やはり山下先生は私にとってなんとなく怖い先輩の先生であった。
再び先生と膝を交えてお話する機会をもてたのは昭和五十一年の春のことであるから、この間約二十年の月日はお互いに別々の時を刻んでいたことになる。さてその二十年間、先生にとっては日本の臨床麻酔の創生から発展にかけて懸命に意を尽くされた時期であり、数々の業績と平行してつとに名声は高まり、また麻酔科の疼痛外来では鍼治療(良導絡)を積極的に導入され東洋医学に対するオピニオンリーダーとして指導的立場に立たれていた。
かたや私にとっては、厚生省の役人から転じて実業界入りし、毎月末の手形の決済に追われる立場からやっと十三年目で解放され、さてこれからはリハビリテーションが世の中で重視されると読んで四十から再び新しい医学の手習いを始め、同時に鍼灸を臨床の現場に導入しようと猛勉していることが契機となって、勤務先を主管する神奈川県から中国留学を命じられるまでの、ややこしくもまた数奇な時期であった。
留学直前に久しぶりにお会いした先生から、日中国交回復後間もなくでもあり、すべての情報の流れは中国からの一方通行のご時世であったので、針麻酔の実態もその真偽の程は皆目わからず、まずは“その目でありのままを見てきて欲しい”とのご依頼があった。そしてその年の〈一鍼会〉の忘年会に招かれて中国針灸実態見聞記を報告した。山下先生以下、竹之内診佐夫、成川洋寿、長田彼佐子、越智信之、野呂信全の諸氏らの面々の前で。
想えばこの報告会がその後先生と二十年余に及びお付き合いいただくことになったとりあえずのきっかけであった。
その当時先生は竹之内診佐夫氏と組んで脈診の研究に励んでおられた。良導絡を基点として鍼灸全般に視野を広げつつ東洋医学の奥義に迫ろうとする研究者としてのお姿がそこにあった。また指導者としては鍼灸の医学における位置づけ―鍼灸師の資質向上の問題も含めて―に深く想いを巡らされていたのであろう。後年、その感慨の中間的段階のまとめとしてAMT(Acupunctutre-Moxibustion Therapist)制度の発案と問題提起がなされたと私は解釈している。
この当時は私はまだ先生の直接に力の及ぶ圏外にいた。先生との接触が密になったのは、厚生省が特定疾患調査研究事業としては初めて組織した、横断的な調査研究組織である《神経筋疾患リハビリテーション調査研究班》に、鍼灸の臨床応用に関する研究が取り上げられ、先生は疼痛対策の面から、私はリハビリテーション医療における導入のあり方の面から検討する課題を負い、共にその研究班に名を連ねることになった時からである。
西洋医療の側からみた鍼灸は、日本の医療の陰翳としてのイメージが強いらしい。とにかく口にも出さず手にも触れず価値そのものを疑う姿勢は堅い。いうならばこの陰翳の中から日の当たる場所に鍼灸を引っ張りだすこと、これが課せられた命題であることは先生と私の間のしっかりした共通認識であった。
研究に精をだす傍ら、先生の影響の及ぶテリトリーに鍼灸を根づかすために厚生省のお役人のレクチャーに狩りだされたり、先生が東海大学の非常勤教授になられて銀座に東洋医学の総合クリニックを開設されてからは医師を対象とした長期レクチャーの相当部分を分担させられるなど、結構先生の手足となって働く機会が増えるにつれて、先生は私を弟分と思い、私は先生を兄貴分と仰いでお互いに機微相通じ合う関係となり、いつの間にか仕事の上での山下-丹沢ライン(実は当人同士は全くそんな意識を持っていなかった)が形成されていった。先生は五十から六十歳の、私は四十から五十歳のそれぞれが十年毎の人生の節目にかかっていた時である。
銀座のクリニックといえば、こんなことがあった。医師を対象とした銀座での第一回鍼灸入門レクチャーの開講式で、受講生からそれぞれの受講動機を聞いた時のことである。度の強い近視の眼鏡の奥で真面目そうな目が小さく光っている若い医師であったが、
「私は大変治療に困難をきわめた皮下膿瘍の患者を担当させられて苦しんだことがあります。まず皮下膿瘍の原因が鍼治療の結果であるとわかるまでに相当時間がかかりました。そして膿瘍の病原菌を同定するまでにさらにたいへん長い時間がかかったのです。同定された菌は〈蛙の結核菌〉でした。どうしてこんなことが起こったのでしょうか。貴重な経験といえばいえますが、相当な時間を消耗し私を苦しめた事件の原因を知りたくて受講しました。先生、教えて下さい。」
のっけから意表をつかれた質問をくらって一瞬たじろいだ。困ったなーどちらが回答するのがよいか……、先生と私の視線がキョロキョロお互いを探り合い譲り合って交錯するしばし沈黙の時が過ぎた。
「やあー、それはどうも難しい質問で……、今すぐになんとも言えませんね……、まあ追々と……、ネー丹沢先生ー」
あとは先生独特の破顔大笑が続いた。つられて私も笑顔をつくった。「君、わかる?」、小声で聞かれてももとより解るはずはない。この問題はとうとう未解決のままになった。
「待っていたよー、例の蛙の結核菌感染の原因、君、その後なにか考えついた?」
遠からず先生と再会した時の話題の一つになることは間違いない。
山下-丹沢ラインがより強固になったのは昭和五十七年、先生が分科会長を務めておられた《厚生省特定疾患スモン調査研究班》から、主として中国鍼法をスモン患者さんの治療に応用する臨床研究を担当してくれないかとのお誘いを受け、研究班の組織上はもとより実質上でも先生直属の配下になってからである。
この時期は先生の思考も体力も結晶期に入られていた頃で、研究、著述、学会活動に精力的に活躍されていた。先生が研究班の分科会でやられたスモンに対する東洋医学的治療研究を軸とした鍼灸関係の文献収集のお仕事は、鍼灸に関する我が国初のデータベースとして高く評価されるものである。
この頃から先生は鍼灸分野における後継者としてどうやら私に目星を付けられたらしい。先輩後輩の壁を越えて特にややこしい問題については真摯に意見を求められるようになった。
先生には銀座を本拠として、東洋と西洋の医学を合体した医療を実践し、それを広めたいという大きな夢があった。AMT制度と鍼灸の保険適用に関してはお互いに違った見解を持っていたのでこの二つの問題は別として、それ以外に指示された問題についてはできるだけ先生の意に沿うような形で処理し、私なりに先生の夢の現実に向かって分身的な役割は果した。しかし意外にも早くその夢は破られることになる。不採算を理由に銀座のクリニックが閉鎖されたからである。代わりに東海大学は付属大磯病院の一隅に東洋医学科を新設し先生を招ずることでその形を整えた。しかし実際にはこの時点で先生は活動の大きな拠点を失ったわけで、以後亡くなるまで、世間が先生に設けた環境はその功績に相応しいとはとてもいえない基本的には不遇といっていい状況で終始した。
当時、先生の気持ちの動揺、あるいは失意のほどは察しきれないものがあったが、その後になって色々な事情が解るにつけ、先生の逆境にめげない強靭な精神力、忍耐力には我が身のそれと比べるほどに敬服するばかりである。大磯病院に移られてからは足元がために腐心され、「大学病院の東洋医学科で鍼灸を基本診療として行っているのは東海大学だけだ」とその独自性を宣伝しつつ率先してその興隆に勉められた。が、大学の対応は必ずしも先生の意図に沿うものではなく失意の延長であったことは間違いない。
この時には稲村ケ崎のお屋敷のお庭に建っているネオクラシックな可愛らしい洋館を改修して自宅開業もなさっていたのだから、今から思うと、じっくりとご自宅に腰を据えられ、そこを本拠として閻達な自由人として活躍なさった方がむしろ先生らしいスケールの大きい生き方ができたのではないかと、なぜそのような意見がその時いえなかったのかと今にして悔いることしきりである。
先生は根っから純粋な方だった。湘南―ご自宅も勤務先も共に湘南―に主な活動の舞台を移されてからは世間の雑塵をよける衣も要らなくなり、身軽さが一層その外連味けれんみのないお人柄を引きださせた。外連味があるかないかは人と対面する時に端的に現れる。先生は人に会うと必ず人より先に声をかけられた。
「やあー、○○君」
明るい口調はいつも変わらず、そして必ず優しい目のお伴があった。外で待ち合わせた時は―私とはよくJR藤沢駅と江ノ電を結ぶ陸橋の江ノ電側の橋のたもとが待ち合わせ場所だった―遠くからそれと解ると右手をたかだかと空に舞わせ、
「こっちだよー」
と合図されることが必ずだった。
「やあー、丹沢君」
時々丹沢先生になることもあったが使いわけの理由はとうとうお聞きしないままになってしまった。その声かけと一緒に先生そのものが一挙に人の心を占拠し、あとは先生のペースで時間が運ばれていく。人との間にわだかまりを作らず彼我一体感を感じてしまう、そんな屈託のなさが先生の大きな魅力であり、無類の包容力につながっていた。ひときわこの魅力の要素に欠ける私にとっては、大きな羨望を抱きつつ先生に接すること自体が啓蒙そのものであった。
鍼灸の世間からある程度距離を置くようにした先生は、つぎの目標をご自身の鍛練に向けられた。“気”の研究の重要性と将来性とを盛んに説くようになられると、自らも師について気功に熱中された。横浜の中華街の雑貨を扱う店先で、カンフーシュウズの品定めのつれづれに気功の講釈を一通り聞かされ、物色に手間取っている間、いい加減で早く決めればいいのにとイライラしながら眺めていたお姿も、いまとなれば中華街のその店の前を通る度に懐かしく思いだす情景となった。
発作後に先生に与えられた西洋医学側のリスク管理のメニューは先生の気にいるものではなかった。たしかに飲む薬は山盛りだったし食事制限も手伝ってかなりの体重を減らされた。もうこりごりだと早々に自宅加療に切り替えられたのは賢明な策であったようである。視床障害から、これはちょっと困ったなと首を傾げたくなる健忘性失語があり一時は復職を危ぶんだこともあったが、程なくして病前に近い体調を取り戻された。このこと以来、ご自分の治療を含めた東洋的医療に対する思い入れはますます深さを増していく様子がありありとみえた。
たしかに発作後の軽い後遺症を克服され現職復帰をされた原動力には、東洋的医療、とりわけ練功による気のパワーの加勢があったようである。しかし残念ながら現職復帰といっても病前のような勢いは感じられなくなり、傍目にも老いの陰りは深くなられた。飾らずにいえば先生の老いは、先生にとっても私にとっても役割を引き継がせ引き継ぐいわばバトンタッチのタイミングを告げる言外の合図ではある。
すでにご病前に《厚生省スモン研究班》の東洋医学プロジェクトリーダーの交代は済ませていたが、そんな現象的な役柄の引き継ぎよりむしろ、私の鍼灸に対する思い入れ、感慨の深さが引き継ぐ器に相応しいものかどうかのほうが重大な問題である。正直なところその点について先生から印可は受けていない。ところが期せずしてそれを試し試される恰好な機会が訪れた。
平成三年秋、京都で開催される《第二回世界鍼灸学会学術大会》の特別講演の演者として指名を受けたのである。企画を見れば開催国日本を代表しての役柄である。その年の春、五度目の手術のための入院中も懸命に講演の骨子づくりに向けて思索を練った。
本番で私に与えられた時間は一時間である。その六十分間に、約二十年間の鍼灸臨床で培った鍼灸に対する感慨の全てを凝縮させて京都国際会議場の大ホールを埋めた聴衆に訴えた。薄暗い場内の前から五列目の中央に山下先生ははっきり見えていた。
講演も終わりに近づき結語にさしかかる少し前から私は意識して先生に問いかけるように話を運んだ。謝辞を述べて講演を終わると満場から湧き出る拍手が音響の塊となって私を包んだ。たくさんの手が揺れる。その揺れる手の輪郭が思わずこみあげる衝動に連れて霞の奥に沈むようにボケ始めた。あわてて汗を拭くしぐさをしながら目頭を押さえた。戻った視野のまだ揺れ動く手の中に、前から五列目のひときわ高く頭上を越えて舞叩く双手を認めると私は探るようにその手に沿って視線を下げた。そこに満足げな笑みをたたえた先生のお顔があった。大勢の中に一組の以心伝心の師弟があった。
この時、頭上はるか高だかな拍手を送って下さった先生のお姿は印可を刻した珠玉の勲章として私の胸に輝いている。
拍手の手が一つ、会場の片隅から飛んできて私の顔に張り付いた。
「丹沢さん―手術は終わりましたよ……」
目を明けると最前の若い麻酔科医の手が頬にあった。目の前を覆っていた敷布がはぎ取られると、代わって現れるバカでかい無影燈のガラスに全身が写るのを見るともなく見、耳にはクラシックのBGMがこと新しげに届いていることを知覚して、それにしても今回の手術は短かったなと、事実はそうでなくても不安に満ちた時間をひたすら追想の流れの中で消費させてくれたのはこれも山下先生のお陰かと、いまさらながら面倒見のよかった先生と再び娑婆に戻れた我が身の幸運とに感謝した。
まだ両足が鉛のように重く寝返りのできない姿勢を強いられながら、消灯後のくらい病室でその夜しみじみと先生のご冥福を祈った。
膀胱腫瘍の手術後の悩みは頻尿である。往復四時間の道のりで排尿に疎漏は起こるまいと腹をくくって稲村ケ崎のお宅をお尋ねした。術後一週間目のするどく真夏の気配を感ずるそれはそれは暑い日だった。
山下邸には玄関ホールから向かって右手の奥に静かなお座敷がある。そこに先生のご遺骨は端正に祭られていた。先生のお姿を心に描きながら玉串を捧げ、ただ無心で頭をたれた。
いつもだと「先生、丹沢先生がおみえですよ」と玄関先から奥へ向かって声を掛けられる夫人。その夫人のお顔にはいまは声掛ける主がいない茫漠とした虚無感のただようさまこそお見うけしたが、そのお振る舞いからはつねに変わらぬ平常心を拝見することができて、なによりも安堵した。
二度目の発作は先生から意識を奪った。藤沢の救急病院から大磯病院に転院されて一週間ほど経った頃だったろうか、先生の枕元に鍼治療の道具一式が置いてある。夫人はその中から鍼柄が長く太い中国針を一本引き抜かれ、「鍼を握らせたら、ひょっとすると意識が戻るかも知れない、と、息子が言うんですよ」と、多分、もう何回も何回も繰り返しなさったのであろう、左手で甲を擦りながら右手で一生懸命先生の右手の親指と人さし指の二本の指で鍼を握らせようとなさる夫人の仕草が、まるで静止画のようにくっきりと私の網膜に残っている。夫人の揺れ動くお気持ちに直接手を触れた思いがして痛いほどの悲しさが心にしみた。
玄関ホールに続く応接室でお茶をいただきながら、そんなことどもの尽きぬお話を夫人とかわすうちつい長居に過ぎた。庭を背にした長椅子に私がいて、夫人は斜め反対側の私よりは奥まったところの一人がけのソファーに座られていた。太陽は中天よりやや傾いたのか私の肩越に入る日差しは室内に丁度よい明るさを与えていた。わたしの正面には玄関ホールに続くドアがあり、日差しの明るさが部屋のどこよりも玄関の方に向かって細目に開いているそのドアを浮きださせていた。
「もういっぱいお茶を」
と夫人が立たれたあとに私一人の静かな短い時間があった。
その時わたしの真っ直ぐ前の細めに開いたドアが、その細く開いている角度を倍にする程度の幅に、玄関側に向かって、スーッと開いたのである。クーラーはサーモスタットが作動して丁度休んでいた。室内に風は無かった。
一瞬、私は吸い付けられるようにドアの一番下の角のわずかな視界から見える玄関ホールの床を凝視した。そこは開いたドアの隙間からもれる室内の光が薄暗くあるだけで、ほかになんにも見えるものはなかった。が、しかし私は心の中で確かにそのひかりの中に動く影を見たような気がした。
「お座敷から、来られたのだな……」
私とドアとの間には黒い皮張りのオットマンが一つ置いてある。影はそこで止まった。影は静かだった。私は影にたまらない恋しさを感じた。でもつぎの瞬間、現実ではないものを見た底しれぬ寂蓼感が私を襲った。
夫人が席に戻られてからもなんとなく腰を上げたくなく、ひとしきりおしゃべりを続けた。忘れていたわけではないが、先生が気にされていながらとうとう報告する機会を逸してしまった学会のことなどを、夫人に聞いていただくような話振りをしながらオットマンに向かって一生懸命語りかけた。心の視線は片時もオットマンから離さずに。
おいとまする時、影を動かさないようにソーッとオットマンの縁を回って玄関ホールにでた。
「百日祭でまたお目にかからせていただきます」
夫妻に告げる思いの言葉をあとに駅へ急いだ。
稲村ヶ崎の駅は山下邸から歩いてものの一分の、目と鼻の先にある。この日の太陽はこんな短い路面と空間にも容赦なく照り付けて、ただでさえ汗かきの私からさらに思いきり汗を搾り出した。
先生はいつもサンダルをつっかけて稲村ケ崎の駅まで送ってくださったものである。
小さな駅だ。おもちゃの駅のようだ。改札を仕切る背の低い鉄パイプの柵は大きな先生のからだが寄ると余計小さく見える。いつもその柵から身を乗り出して手を大きく振って見送ってくださった。
頸すじを伝って流れる汗を拭きながら電車が入構する合図のベルにせかされるように構内の踏切を渡り、ホームにかかる階段に一歩足を踏み込んだところで「さよなら」を言おうとして改札口を振りむいた。
誰もいなかった。
そんなことはとうに解っているのに……。
でもどうしてもそうしなければいられない心がそうさせた。
これからも、稲村ケ崎の駅を通る度に、きっとあの改札の小さな柵の後ろに、先生の姿と、大きな手と、優しい目を捜し求めるに違いない。
もし、あなたが、同じ車に乗り合わせていたとしたら、稲村ケ崎の駅に着いてすれ違いの電車を待つ間、窓に顔を押しつけんばかりにして改札口あたりにまるで待ち人を探すように視線を凝らしている、帽子がめだって粋に光っている、初老の男性を見かけることだろう。
この年のこの日の日記を繰ると、「私は一人になった感じ」と末尾にあった。

※以下は医道の日本誌に再掲された際の編集部によるコメント
(鍼灸界の発展に尽くされた山下九三夫氏は平成六年の六月に亡くなられた。その追悼誌『大杉乃緑陰』が山下先生を囲む会「一鍼会」によってこの七月に出版された。巻頭に丹沢章八先生が「山下先生と私」を書かれている。指導教員とインターンの関係から兄弟以上の付き合いをされ、共に歩んだ軌跡が記されている。この度、著者の了解が得られたので、鍼灸を愛した山下先生を偲んで本稿を転載する―『医道の日本』編集部)