<出典情報>
初出 「日本赤十字看護大学公開講座」での講演「老いて元気―未病のちえとわざ」(於:日本赤十字看護大学、2005年9月2日)
※文章は日本赤十字看護大学が発行した小冊子『老いて元気―未病のちえとわざ』に掲載
再掲 丹澤章八著、宮川浩也編『鍼灸の風景 ~丹澤章八先生 講演・随筆集~』(丹塾、2014年)

未病のちえ

三才
丹澤章八
三才
1998年
彫塑
本公開講座のテーマは「未病のちえとわざ―老いて元気―」です。
私はお陰さまで、あと数か月(二〇〇六年・平成十八年)で喜寿を迎えますが、「老いて元気」という言葉通り私は元気です。日本では七十四歳までは前期高齢者、七十五歳からは後期高齢者と呼んでいます。私はすでに後者に入っておりますが、“老いて元気”のサンプルの一人ではないかと思っております。
さて、世の中には全く健康な方と病気持ちの方とがいらっしゃいます。その二者の間には、大きなスペースがあります。このスペースにはどういう方がいらっしゃるかと言いますと、いわゆる健康に見える人、つまり、病気や障害をもたれていても世間とつながりをもち、自立した生活を営んでおられる方々(普通人)がたくさんいらっしゃいます。
私の専門は東洋医学ですが、同時に脳卒中の患者さんのリハビリテーションの専門医でもあります。私の周りには“たんざわ会”という患者さんの会がありまして、かれこれ二十年続いています。皆さん大変お元気で、卓球や写真クラブなどいろいろな活動をされており、その様子を見ておりますと到底私には追いつけないと思うほど活発です。でも、その方々は片麻痺などの障害のある方たちですが普通人として暮していらっしゃいます。世の中とは、老若男女、健常者、病者、障害者が共に尊重しあい共生している人間世界です。
この世界の実現を目指すのがリハビリテーションの理念であり、これをノーマライゼーション(normalization)「等しく生きる社会の実現」といいます。熟年層の普通人をみてみましょう。からだの中に、元気とそうでないものとが等しく存在しながら生命を営んでいる姿と見えます。そしてその姿を喩えるなら、普通人の心身のありようはまさに、今お話したノーマライゼーションそのものではないかと思うのですが、いかがでしょうか。

未病とは

人間には、健常状態を保つために恒常性と呼ばれる機能が備わっています。この機能が程よく働いていると、健常な状態を維持する一方で、もし異常な状態が起こってもそれ以上悪くしないように状態を保つことができるのです。これが「普通人」の状態で、“病とともに生きる健康”という熟年の身体状況ではないかと思います。そしてこの状態が、今日お話しする“未病”という言葉におきかえられると思います。
英語には“未病”に相当する言葉はありません。“津波(tsunami)”という日本語は完全に国際語になっています。“未病”についても日本から発信し言葉も概念も広く海外に知らせたいと思っています。
“未病”という言葉は、『平成九年版厚生白書」(一九九七)で使われました(第一篇・第一部「健康」と「生活の質」の向上をめざして、第二章生活習慣病、第二節「生活習慣病」の考え方)。この白書が出た年に成人病が“生活習慣病”と呼ばれるようになり、生活習慣病の発症を理解してもらうために「未病の概念について」というコラムが設けられました。つまり、それまで成人病と呼ばれていた病気は、悪い生活習慣が積もり積もった結果であるということを啓蒙しはじめましたが、啓蒙の主旨を理解してもらうためには、健康と病気とは対立したものではなく連続的であることを知ってもらう必要がありました。その連続性を理解してもらうためには“未病”という概念が最も当を得ていたからです。
そもそも“未病”という言葉は、『黄帝内経』(中国最古の医学書)に発します。道理に明るい人(医師)は病気になってしまってから治療方法を講ずるのではなく、病気にならないように、つまり“未病”のところの手当てを怠たらないと。また、鍼灸の古典の『難経なんぎょう』には、情報をたくさん知った医師は未病を治すと、書かれています。要するに対症療法だけではなく、次に発展する可能性のある病態が何かをいち早く推測して、その対策を兼ねた広い範囲で治療をする、ということです。“未病”は、健康と病気との連続性の中にあって未だ病まざる状態という意味だということがお分かりいただけたと思います。

生活習慣病と未病

図1

図1

以前、私が学会長をしていた全日本鍼灸学会の学術大会で、西洋医学と東洋医学それぞれの立場で“未病”に取り組んでいる方をお呼びし、“未病”に関する対話をしたことがあります(第五十回全日本鍼灸学会学術大会、二〇〇一年)。
まず、論者に“未病”についてどのように考えておられるかをお尋ねしたのですが、考えておられる状態や範囲は西も東も似かよったものでした。“未病”については公に定義づけられているわけではありませんが、私の見解を申し上げますと、まわりくどい言い方ですが「結果的に病気に結びつく関わりがあるものすべて、そのものとは状況より相(phase)で捉えるほうが妥当」ということになります。この表現は図を見ていただくと納得していただけると思います。(図1参照)
未だ病まないという考え方は、西洋医学の二元論的では解釈できません。東洋医学の連続性をもった考えでないと“未病”の状態も生活習慣病も理解できません。
図でもう少し説明を加えましょう。西洋医学的な考え方は、検査正常値を基準に置き、基準をクリアしている人を健康とします。東洋医学には検査正常値の概念はなく、それにかわって一番底辺に“気”のラインがあります。したがって、そのラインの上にあるものはすべての生命現象ということになります。その生命現象は元気と病気とを連続性に捉えたもので、その状態を“相”が重なった状態と捉えるのが私の考え方です。
図として描いて見れば“未病”は自分の体のなかに“相”としてあるというのが私の考え方です。ですからこの“相”に対する対策、すなわち“未病対策”が必要であることは、おのずからお分かりいただけると思います。
ゲノムの解析が進みまして、遺伝子が絡む病気は明らかになりつつあります。その解析に応じた医療(オーダーメイド治療)が可能になりつつありますが、私は、このレベルの医療を“細胞大のオーダーメイド医療”と名付け、“等身大のオーダーメイド医療”と区別しています。
等身大のオーダーメイド医療とは、人間丸ごとを対象とし、しかも個を大切にするケアの医療であり、その核心は養生医療だと思います。二十一世紀の医療は、細胞大のオーダーメイド医療は先端医学が分担し、等身大のオーダーメイド医療はプライマリーケア、看護、伝統医療が分担し、両者が一体となり統合された姿が望まれます。この統合された医療が供給されてこそ、生涯現役社会の実現ができるのではないかと思います。

“気”について

図2

図2

東洋医学では“気”という言葉が盛んに使われます。その語源をまず説明しましょう。
荘子(二千数百年前の中国の哲学者)の言葉に、「人の生は気のあつまれるなり、聚まればすなわち生となり、散ずればすなわち死となる」という言葉があります。“気”と生・死は密接な関係があると説きます。 われわれが日常で使う“気”に関する言葉をひろってみますと、大気(宇宙を含む)、雰囲気、環境、魂、生死、性格、気持ちなど、いろいろなところで使われ、さらに、医学用語としても生命力と活動、呼吸などの用語にも多く使われています。そして用語の間には深い関連性があり、“気”は生活の場を象徴するキイワードと言えそうです。
荘子の言葉によると、“気”がなくなることは死を意味し、“気”があることは生命活動があるということになります。
話は変わりますが、佐藤勝彦先生(東京大学大学院理学系研究科教授)のインフレーション理論(一九八一年)によると、宇宙の創成は無から始まったといいます。無とは何でしょうか。先生に言わせると、無とは物理的には消すことができない“ゆらぎ”なのだそうです。では“ゆらぎ”とは何でしょうか。“ゆらぎ”をイメージしたときに浮かんできたのは象形文字としての“気”の原型である“ゆらぎ”を意味する“气”でした。無は“气”に通ずることを考えますと、宇宙の生も人の生も共通のキイワードとして“气”があることに気づきました。古くから東洋医学では人体は小宇宙と言われているわけが理解できます。(図2参照)
図1をもう一度見てください。
西洋医学的な考えでは、検査正常値をクリアしているものは良い、クリアしていないものは悪いと解釈されます。悪いという概念は、否定する考えかたです。したがって西洋医学はなんとか病気を取り除こうとしますが、東洋医学は対極的な考えではありませんから、いかなる病態でも生命現象としては肯定的に考えます(生きているから病気になるのであって、死んだら病気にならない)。
ですから治療に対する考え方も違ってきます。否定の考え方である西洋医学は病原を取り除く治療が主体ですが、肯定の考え方にたつ東洋医学は生命活動を援助する治療が主体となり、両者の治療の方向性が違うことがお分かりいただけることと思います。いいかえれば西洋医学はキュア(cure)の医療、東洋医学はケア(care)の医療と言えます。ケアとはおおづかみに言えば養生のことであり、医療としての養生は連綿として伝統医学に受け継がれています。
有名な貝原益軒の『養生訓』に、「養生の道は、病なき時につつしむにあり」として未病期(病なき時)の重要性を指摘し、「養生の術はつとむべき事をよくつとめて身をうごかし気をめぐらすをよしとす」として“気”をめぐらすのが養生実践のコツと説いています。
“気”をめぐらすとは、体の中に備わっている恒常性を保とうとする機能をよく働かせることです。
生かされていることに限りなく感謝し、怠けずにほがらかに生活する。そんな生活自体が養生の根本であることに気づき、伝統医療はその養生を援助する医療であることを知る。
“未病”と向き合い、老いてますます元気に暮らせるちえとわざとは、こんな身近なところにころがっているんだと言えそうです。

Q&A

Q 臓器には胚幹細胞があり、死んだと思われた臓器も生き返らせる可能性があると聞きました。特に代替医療の治療者がそういわれるようですが、先生のご意見はいかがでしょうか。
A 胚幹細胞にはかなりの再生能力があるということについてはおっしゃる通りだと思います。治療方法のメカニズム解明のためにいろいろな研究がされていますが、たとえば鍼灸では、刺激が脳でどう受けとめられるかという研究がすすんでおり、ある方法によると、脳内で記憶を司る海馬の血流が増える―血流が増えたことで即、活動が盛んになったとは必ずしも意味づけできないのですが―というデータが出ています。また、漢方薬にも細胞復活の効果があるかもしれません。東洋医学は人口に膾炙され、歴史を保ってきた背景があり、細胞の再生能力については肯定的です。
Q 私は太極拳、気功、錬功十八法(いずれも気の鍛錬法)をしていますが、これらでは呼吸を大切にするように思います。血のめぐりと呼吸にはどのような関連があると思われますか。
A 実際にわれわれが意識できる“気”は呼吸です。すべての心身の修練、修養の道は呼吸法からはじまります。自分の“気”を確かめる方法として、太極拳などの錬法があると思います。近代人の胸式呼吸は悪い“気”が溜まってしまいがちです。拳法における呼吸こそ大切なことだと思います。