<出典情報>
初出 神奈川県総合リハビリテーションセンター機関誌『光あらたに』第106号(昭和57年11月1日)
再掲 丹澤章八著、宮川浩也編『鍼灸の風景 ~丹澤章八先生 講演・随筆集~』(丹塾、2014年)

物差し考

こもれび
丹澤章八
こもれび
2004年
彫塑
つい先頃、テレビの学術番組で、磁場の極性を感じて運動を起こす細菌があることを知って驚いた。この習性がその細菌にとって、どのような意味があるかは未だ判っていないらしい。
しかし、生きとし生けるもの(地球上のあらゆる生物)は、すべて自らの生存を主張する目的のために、己を取巻く内外の環境の変化を、いち早く適確に察知する精巧な“物差し”と、それぞれが独特の方法で、その変化に対応してゆく大いなる智慧を持っている。
草木は四季を感じて、芽生え、開花し、実を結んで種子を地に落し、発芽のための力を土の中で冬寒を避けながら蓄える。渡り鳥は、地球の運行に従って北と南を行きかいながら群をふやし、自らもその装いを変えてゆく。
我々の眼にうつる大自然の営みは、これら生きとし生けるものがそれぞれの“物差し”で宇宙の変化をとらえ、得られた情報に精一杯順応し、時には対抗しつつ、しかも折々の宇宙の変化と見事に共鳴している姿である。

春は花夏ほととぎす秋は月
冬雪さえてすずしかりけり
この歌は、川端康成が、ノーベル文学賞授賞記念に行った、「美しい日本の私」と言う講演の冒頭に引用したもので、「本来ノ面目」と題する道元禅師の作である。私もこよなくこの歌が好きである。
この歌について、川端は講演の中で、「古来の日本人が、春、夏、秋、冬に、第一に愛でる自然の景物の代表を、ただ四つ無造作にならべただけの、月並み、常套、平凡この上ないと思へば、思へ、歌になってゐない歌と言へば言へます……」と、その変哲のなさを指摘しながらも、究極には日本の真髄(日本の自然と人情)を伝える秀吟として絶讃している。
その理由はどこにあるだろうか……。
問われれば、自然の心をもって自然を歌いあげた(宇宙大の心の“物差し”で宇宙を測り、宇宙そのものになり切っている)、いいかえれば、禅師が自然であり、自然が禅師であり、平凡即至上であるところにこの歌のすばらしさがあると答えたい。
さて、人間は生物として本来的に持っている大いなる知恵を土台にして、自然科学と言う学問知識に裏付けられた精微な“物差し”を創造し、その“物差し”を駆使して、主張を起えて生存を保証する高度な文明社会を築き上げた。
しかし反面、文明の発達と強い相関をもって、いろいろな場面で、自然との間に調和の乱れが増加している事実もある。これは文明を過信するあまり、本来宇宙と一体であるべき“物差し”の尺度、すなわち内に蔵しているはずの大いなる智慧をおろそかにしはじめたための所産であり、己れの尺度のみで客体を律しようとする偏見性と、慢心の危険性を告げる警鐘に他ならない。
現代は個性が尊重される時代という。個性と言う名の“物差し”を持つことはたしかに必要である。しかしその尺度は、客体の尺度を尊重し、包含し、時には客体そのものになり切ることができる大いなる智慧と知性とが融合した融通無碍のものでなければ、個性ある“物差し”とは,言いがたい。古人はこれを叡智と呼んだ。叡智を欠いた個性などは、まさに噴飯物である。
もう一つ、私の座右銘。
「應無所住、而生其心」―『金剛経』―
まさじゅうするところなくして、しこうしてそのこころしょうず〕
こだわらず、とどまらぬ心こそが叡智である、とでも訳せようか。前出の道元禅師の歌とともに、人間本来の面目を表現して妙である。
ところで、医療人としての原点は、客体のありのままの姿をとらえ、客体そのものにもなり切ることもできる叡智にあるのではないかと、かねがね考えている。その内容が、絶えず全人間的な要素に満たされているリハビリテーション医療の場にある者にとっては、殊更のことと言えるのではなかろうか。
この短文は、日頃、己の心の“物差し”の狭小さから、人にも、物に対しても、それを画き出すイメージがあまりにも私流に修飾されすぎ、時にはその偏見性に気付いて愕然たる想いを歎くあまりの、自戒をこめたものである。
題して“物差し考”