<出典情報>
初出百合会びゃくごうかい 会報 第8号」(2000年8月8日発行)

その1.役者と出家、とその弟子

石川:医療やそれを取り巻く周辺領域や、また社会事象に関して広くお話を伺いたいと考えております。と申すのは、先生のおやりになられていることが、当然全部のことを僕は知らないわけですが、それでも大きな関連性の中で先生の人生の歩みがなされて、医療や鍼灸界に関してのご発言になっていることを、感ぜずにはおられません。
 先生がご自分の専門診療の中で、自然と針灸治療の道を選択されて鍼灸界の指導的役割を担って行ったこと。私どもにとってはそれが幸運であったわけですが、そのことはたくさんあり、特に東京や神奈川の関係者は恩恵に浴したわけです。
 先生が最初は産婦人科医であったこと、そしてリハビリテーション医になり、その間中国医学を診療に取り入れたこと。生命の誕生から、養生や立命、そして高齢者医療や福祉と、医療の本質的な部分を選んでいる訳です。
 また趣味も幅広く常磐津もお名取りだそうで、日本橋芸者の三味線の音程を正したという逸話も聞いております。彫塑も日彫展に入選されるほどで、またガンからの生還も含めて、お一人で生老病死を地で行く東洋思想の体現者みたいな方であり、大変失礼な物言いですが、僕に取ってはもうそれだけで充分フィールドワークの対象となる人物でいらっしゃいます。それですから、ここは是非いろいろなお話を後進のために伺えればと思うわけです。

●どどいつどいどい

丹澤:石川先生のフィールドワークの研究対象にされてはかなわないなあ。(笑)でも、日本橋芸者の話は作話でしょう。どなたから聞きました?
石川:こういう取材源は明かさないのが原則ですが、簡単にばらしますと湘南鍼灸専門学校の君島忠勝先生です。(笑)
丹澤:ああ、あれね。それは、都内のとある料亭での話ですよ。年次は忘れてしまいましたが、小田原で開催された全病理の学会の打ち合わせの会のあとの懇親会で、ひょんなことから小唄か都々逸(どどいつ)を披露する羽目になりましてね。ちょっとうなったら芸者さん達が座り直したことがありました。その時の話かな。
石川:先生の芸に触れて居ずまいを正したわけですね、これは素人ではない、敬意を表さないといけないと芸者さん達が感じた。うーん、さすが通人。
丹澤:芸者さんと旦那衆が歌う都々逸はだいぶ違うのですよ。粋(いき)かげんが違う。玄人の都々逸は艶っぽさが濃いのですが、素人がこれを真似るといやみがでる。いやみなく、しかも江戸前の洒脱な都々逸をやったものだから座り直してくれた。
石川:邦楽の中でも難しいと言われる常磐津(ときわず)のお名取りですから、旦那芸の域をはるかに超えていたわけですね。常磐津は何年でお名取りに?
丹澤:5年ほどで取りました。

●歌舞伎十八番

石川:して、常磐津を選んだのは?
丹澤:邦楽が好きでしたし、中でも「語り」を主とした浄瑠璃系のものをやってみたかった。考えてみると歌舞伎の影響が大きいですね、子供の頃からよく連れて行かれた。
石川:お父様に?
丹澤:そう、幼稚園児の時分から歌舞伎にはよく連れていかれましてね。今でも良く覚えていますが、「矢の根」という曾我兄弟の物語を題材にした所作事がありますが、床の間を舞台に仕立てて、その曾我五郎の所作の真似をしては拍手喝采され、いい気になっていたものです。父親ゆずりの“遺伝子”かな。
石川:お父様は財界の大御所でしたから、芸事にも精通しておられたわけですね。当時の人達は今よりも気宇広大で、心にもゆとりがあったように見受けられますが。
丹澤:まさにそんな感じですね。遊びというのは「ハンドルのあそび」と言われるように「ゆとり」の意味なのでしょうね。車の安全を保証するのがあそびであるし、人生や仕事の中にもあそびが必要でしょう。また遊びが文芸につながるのは洋の東西おなじです。
石川:今の方が経済的には豊かなはずですが、ゆとり、あそびがなくなり、ぎすぎすしています。逆説的ですね。
丹澤:確かにひと昔の人の方が遊び心はあったのでしょうね。そんな父に学生の頃、その当時は演劇にこっていましたが、夏の夕暮れ時などに突然「庭に出ろ」と言われて、対面して小唄や都々逸の口伝を受けたものでした。
石川:そうですか。なんだか映画の一シーンのようなその情景が浮かんでくるお話ですね。また、幼稚園児から歌舞伎小屋に通っていたのではかないませんねえ、粋人になるわけです。演劇は学生時代からですか。

●役者志望

丹澤:ええ、本当は私は役者になりたかったのです。今から思うと熱き志望だったと思いますよ。ところで、石川先生は七沢リハビリテーションで研修をしておられた当時は東洋医学の治療室に行く渡り廊下のところに、舞台付きのホールがあったのを覚えていますか?先生がおられたのはいつでしたっけ?
石川:1980年から研修制度の期間は1年間だったのですが、2年間ほど押しかけてご指導頂きました。
丹澤:そうですか。そうすると、まだ増改築前だから、舞台付きのホールはあったはずですね。気がつきませんでした?
石川:ええ知りませんでした。
丹澤:そこでも芝居をやったぐらいですから、医者になっても演劇は忘れられなかったのです。そう、そういえばインターンの時にもやったのですよ。インターンは国立東京第一病院でした。その敷地の中庭に舞台付きの講堂がありましてね。もとは陸軍第一病院ですから傷病兵の慰問のために作られた建物ですが、そこでチェーホフの「熊」をインターン仲間と演じたところ大変評判になった。だって、インターン始まって以来の非医学的文化的行為だったものだから、病院中の評判になりましたよ。(笑)
石川:それは楽しいお話ですね。チェーホフであることもその時代の息吹を感じますし、病院劇場初演をシェークスピアやモリエールでなくチェーホフを選んでいることも、振り返れば若き医師の心のありさまを象徴している気もします。そういったテーマは後に時間が許せば触れさせて頂くことにして、そうすると、もともとが演劇からで、その後すぐに常磐津へ?
丹澤:いや、いや、すぐにではありません。芝居は仲間がいるわけですが、いよいよ仲間がいなくなった。仲間がいなくなったら一人芝居をやるよりしょうがない。そこで「語り」に転向したというわけです。
石川:今でもよくお芝居や映画を見に?
丹澤:それが、からきし見ないのですなあ。役者が役作りをするための苦労や思い入れが自分なりに分かってしまったり、自分ならこう演じるなんてくだらないことを考えてしまうので、存分に楽しめないのです。

●山下先生との邂逅

石川:お聞きして先生らしいなあとも思いますが、演劇に打ち込み過ぎたのでしょうか、先生の当時の情熱を感じるところです。文字通り「情」、「パション」ですが。ところで、国立第一病院では山下九三夫先生とお知り合いになられるわけですね?何年頃のお話で?
丹澤:ええ、インターンの指導教官でした。昭和26年ですね。
石川:僕が生まれた年ですね。山下先生は指導教官でおられた。先生とは幾つ離れていらしたのですか?
丹澤:ちょうど10歳ですね。その当時はこわい先生でした。
石川:しかし、指導教官は破天荒なインターン生に苦笑いをしていませんでしたか?
丹澤:いいえ、いいえ。それが、その年の忘年会の催し物に、なんと外科の医局が演劇部を作って旗揚げ公演をやりましてね。山下先生がおんみずから音頭取りをされて、しかもご自分でもりっぱに主演の一人としてフランス現代劇を演じておられた。そしてその演出を私が仰せつかった。(笑)
石川:おもしろいですね。すっかり孫悟空のような新人のほうに、いつのまにかペースを奪われてしまった。
丹澤:いやー、そうでもありませんがね。しかしよっぽど楽しい思い出だったらしく、先生の晩年、私と二人で飲む機会があると、最後には必ずその当時の話になり、ほんとうに楽しそうに追想しておられました。(笑)
石川:山下先生とは直接にお話したことはなかったのですが、いつか学会で丹澤先生に早足で近寄って来られて、急ぎでお話ししたかった様子だったのでしょうが、丹澤先生は初対面である僕ら青二才を、三人でしたが、丁寧にご紹介して頂いた。山下先生は一人一人会釈をしてくれました。
丹澤:へえー、そんな時がありました?
石川:ええ、その情景が今でもはっきり両先生のお顔の表情から残っているのですよ。僕は大変恐縮したと同時に、感銘を受けました。青二才に対しても、洗練されたお二人のふるまいに、大人(たいじん)を目の当たりにした感がありました。そしてインターン以来ですか、山下先生とのご友誼は?
丹澤:いや、それが面白い関係でしてね。インターンに引き続いてレジデントとして第一病院に残った3年間はお付き合いいただいたのですが、その後は約20年お会いしていなかったのです。
石川:へー、20年間もですか。
丹澤:私は厚生省の技官を1年間したのですが、父の命によりその後は実業界に転じていたのです。
石川:厚生省におられたことが、後々先生の人生に何かと関与してくるわけですね。その当時には夢にも思わなかったことでしょうが。そして、実業界では何をおやりになったのですか?
丹澤:製薬会社です。そういえば、製品の一つにカプサイシンの入った膏薬がありましてね。その販売のために全国行脚したものです。製品の売り上げを伸ばすために、ツボに貼ってもらえば一人が何枚も使ってくれて消費も多くなるばかりでなく、効き目もいいのではないかと考えて、ツボの効用などを販売代理店に説明して歩いたのを思い出します。
石川:我々の世界に近づいて来るお話ですね。そして、山下先生は山下先生で別に鍼灸や良導絡をおやりになるわけですね。不思議ですね。実業界は何年おられたのですか?
丹澤:13年間です。

●医療と「寄進」

石川:そして、そこで道元さんに会われた?
丹澤:ああ、それはね、お恥ずかしい話で、鼻先にぶらさがった程度の知識しかありませんが。しかし道元の思想に触れて、広い意味での宗教観を身に付けることができたと思います。実は経済界にいたときに、どうしても許せないある背信行為に出会い、自分の人格が崩壊するような精神的な危機に見舞われた時がありました。その時に縁あって禅門を叩きまして、5年間ほど参禅しました。その時に座禅の傍ら「正法眼蔵」を読みふけったわけです。
石川:医学界から離れていたことが先生の経験を重層的にした。
丹澤:今思うとその後の人生のターニングポイントであったと考えています。自分の世界を自分から離れて少しでも客観的に眺めることができるようになったのです。そしてもう一度医療に復帰するにあたって、自分が医療に「寄進」できるのは何であろうかということを考えることができたのです。
石川:そして、リハビリテーションの道を選んだのですね。
丹澤:ええ、東洋医学を良き伴侶にしましてね。(笑)
石川:先ほど、膏薬のお話で経穴に気がついたとおっしゃいましたが、鍼灸の存在はご存知でした?
丹澤:子供の頃、麦粒腫(ものもらい)をおふくろさんがお灸をすえてよく治してくれました。これが不思議に治るんですよね。ですからお灸のことは体験して良く知っていました。また私が医療に復帰した当時のリハビリテーションの理学療法の現場は「あ・は・き師」でPTの資格を得た人達が専ら担当していたのです。理学療法士の養成学校の卒業生はまだ極わずかしかいない時代でした。そんな現場が、物理療法の中に鍼灸があることを気付かせてくれたのです。しかも運動器の痛みに有効であることを知って、「これは使えるっ!」と思いましたね。
石川:先生はそうおっしゃるけれども、リハビリテーション医はたくさんいるはずでして、その中で先生だけが東洋医学に気づいたわけですから、やはり先生のお考えや今までの人生のご経験が鍼灸を選択させたのではないでしょうか?
丹澤:ええ、そうかもしれません。私が考えている鍼灸医療の基本理念とリハビリテーション医学の理念とは大変近似していると思えたものですから。ですから東洋医学を導入してやろうなどという意気込みは全くなく、私の手に鍼が握られていたのは、極めて自然な成り行きだったわけです。
石川:その後、当時の白根神奈川県副知事が中国へ行かれて、それが契機となって先生も中国へ短期留学されるわけですね。

●厚生省の仕事

丹澤:留学報告をかねて本当に久しぶりに山下先生にお会いする機会を得ました。そこで中国の鍼麻酔など現代中国の針灸治療の実態をよーく見てきてくれと依頼されまして、帰国報告会を行いました。その報告会後から、また山下先生とのおつきあいが始まるのです。お亡くなりになるまで。
石川:その後、お亡くなりになるまで何年間ほどでしょう?
丹澤:だいたい20年間ぐらいかな。
石川:ご一緒に厚生省のお仕事もされるわけですね?
丹澤:厚生省が特定疾患調査研究事業に、はじめて横断的な研究調査として、神経筋疾患リハビリテーション調査研究班という班を設けましたが、その研究班の中に鍼灸の臨床応用に関する研究チームが置かれたのです。私が班員に推されて入ってみると山下先生もその班におられ、共にその研究班に名を連ねることになりました。
石川:スモンのご研究もこの頃ですか?
丹澤:いいえ、スモン研究はもっとあとで、昭和57年です。
石川:やはり、厚生省のお仕事ですね?
丹澤:そうです。縦断的な調査研究班の中でもひときわ規模の大きいスモンに関する調査研究班がありまして、山下先生はその研究班の中に置かれた東洋医学会分科会の長を務めておられました。先生からお呼びがかかり、私も一緒にスモン患者さんの治療に応用する針灸の臨床研究を担当させていただきました。先生がご退任後は私が東洋医学会分科会を引き継がせていただいたという経緯です。
石川:最初に、先生は医療の本質的な部分を時代よりも一足早く歩いていらっしゃると申しましたが、そこまでは良いのですが、あやうく出家の道に入りそうになったり、役者になりそこなったりするわけですから、大変危ない道も歩んでいらっしゃるようです。フランス軍がウイーンを占領していたときに、興奮しやすいベートーベンは「私がもし対位法ぐらい戦術に明るければ、目にも見せてくれよう」と拳をふりあげて叫んだと言います。いや、知らなくて幸いであったというべきでしょう、と芥川也寸志は生前エッセーに書き残しています。今日先生のお話をお伺いさせていただきましたが、どうやら我々にとっても非常に幸運であったようです。(笑)

「その2:シンパシーとコンパション」へ続く