<出典情報>
初出 丹塾主催 鍼灸師育成シンポジゥム 第二回 信頼に足る鍼灸師を目指せ 【第二部】見えるものと見えないもの(2016年5月5日,成城ホール)

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「続・鍼灸の風景」―[臨床における[気]・時間・空間論]― その1

《以下、録音記録を文章化するにあたって、その後に考え付いたことどもを追加し、文中の雑念勝手論をその1~その7に項立てして理解を深めていただくための便とした。また文中特に力点を置いた文節には、 ―残したいコトバ、覚えておいてほしいコトバ― と注を加え、全面的に改稿した》

【イントロダクション】

風薫る五月、今日はその五月の連休の中日で、しかも五月晴れの行楽にもってこいのお日よりにも関わらず、このシンポジゥムの参加を選択せれた方々の勉学心に対し、謹んで敬意を表します。このような企画のシンポジゥムは昨年に引き続き二回目になります。当初は(昨年)一回こっきりと思っていましたが、運営委員の方たちは、私の思惑などは論外で、二回目はやるんだと決めてしまっておられたようです。
しかも今回掲げられたテーマは[見えるものと見えないもの]という大そうな哲学的なテーマでして、私は今年になって初めてこのテーマを知った次第。「こりゃ大変なテーマだな。哲学講義になるんじゃないかな。」と話の内容を整えるのに四苦八苦しました。が、なんとか、お喋り出来る内容には頭を整理することができました。しかし、出来上がった話しのおよそ半分は既に皆さん方にご披露をしている内容でした。
今日初めて参加された方は「おっ!、そういう話は初めてだ」と聞いていただけるでしょうが、半数位の方は「もうその話は聴いたよ・・・」という内容ですので、どうぞあしからず御許しを願っておきます。
ただですね、「あぁ、聴いた、きいた、その話はもう分かってるよ」という方は、大変記憶力の優れた方であり、几帳面さを兼ね備えているはずですので、そういう方は将来は認知症になる可能性が高い、と、言われていま・・す・・。「いや、そんな話は聴いた覚えはあるけどよく覚えていないな」という方は、将来認知症にはならない。・・・もうすでに認知症なんですから・・・(一同笑い)。この話のくだりは昨年度の講演の枕にも申し上げた冗談ですが、それも忘れて本日参加されている方がいるとすれば・・これはもう大変です。認知症が一段と進んだと・・・(一同笑い)。ご用心、ご用心のほどを。
かなり昔のことになりますが、柴田錬三郎さんがご在世の時、氏の講演会に参った時の事です。やおら舞台に上がられた氏の第一声は、なんと、『今日はどんな話をしようかな・・』という口切くちきりでした。大家だから通用すること。でも現在の私は全く同じ心境で、「どんな話をしようかな」と言いたいところですが、それを一介の老骨が真似てはまことに失礼千万。色々考えた私の話しが、本日招待講演者としてお招きした正木先生のお話につながるような前座の役目を果たせれば幸いだと思っております。
さて、話しの幕開けはお馴染みの丹澤流紙芝居(P.P)ですが、今回も、その歳でよくもまあこんな紙芝居が作れたものだと褒めていただける・・、ことを期待しながら・・、しばらくのお時間を頂きたいと思います。
昨年は 【鍼灸の風景】 という標題のもとに[風景論から鍼灸を考える]、[治未病論―もうひとつの医療論―]、[恕の鍼灸]という内容のお話しを致しました。
今年は[見えるものと見えないもの]というテーマに沿って、標題を【続:鍼灸の風景】と銘打ち、演題は[臨床における[気]・時間・空間論]としました。やや気取った演題ですが、内容は相対化したものではなく、喋っている本人も自信のない自己流の雑念勝手論(ぞうねんかってろん)ですので、後で質問はお受けしない・・、(一同笑い)、という事にさせていただきます。
物事を考えたり、文を作るのに[作文の三上]という謂れがあります。まず馬上―騎馬した鞍の上で考える、今は車上―電車の中が主でしょうが、車の運転中は危険ですからやめて欲しい―でしょうか。次は枕上(ちんじょう)―主として就眠前の少時、枕の上で考える、それから厠上(しじょう)―トイレに座って考える、これが三上です。私はそれにもうひとつ、湯上(とうじょう)―湯に浸かりながら考える、を加えます。私は烏の行水のたとえにあるような至って短い風呂なのですが、湯に浸かった瞬間に色んな考えが浮かんでくることが多いのです。ですから私の場合は[作文の四上]になります。これから本日のテーマに沿ってその四上で考えたことを継ぎ合わせてお話していこうと思います。
[見えるものと見えないもの]というテーマを頂いた時に、瞬間的に頭に浮かんだのが、金子みすゞ、の『星とたんぽぽ』という詩です。
星とたんぽぽ

『青いお空のそこふかく
海の小石のそのように
夜がくるまでしずんでる
昼のお星はめにみえぬ

見えるけれどもあるんだよ
見えぬものでもあるんだよ

ちってすがれたたんぽぽの
かわらのすすきにだァまって
春のくるまでかくれてる
つよいその根はめにみえぬ

見えぬけれどもあるんだよ
見えぬものでもあるんだよ』
先ほど石川先生から、別な生物になって人間を見るというお話しありましたね。金子みすゞという方は別の生物になりきって人間社会をみる。このような視点、心情から、かずかずの優れた詩が生まれてきたのではないでしょうか・・。
続いて頭に浮かんだのが、『星の王子さま』でした。ご存じの『星の王子さま』で一番有名なところですが・・、
『心でみなくちゃ、
ものごとはよく見えないってことさ。
かんじんなことは、
目に見えないんだよ。』
この二つの詩から読み取れるものは何であろうかを考えます。
手短に言いますと、われわれ平人は、自分が見えていることというそのものは、実は、自分に利害関係があるものばかりの事象なんだ、と哲学者は言います。網膜に映る映像の中から、それぞれが自分の利害に関係した事象(映像)だけを選択して認識している、とも言えるんじゃないでしょうか。実は認識していない映像が別にある。それは現象的には見ていない、あるいは見えていても認識の対象としていない、その見ていない、認識していないものの中にこそ大切なものやこと、延長すれば真理とも言うべきものが宿っていることを示唆しているように読み取れます。

【[気]に関する私の考えの変遷】

「気」 その考えの変遷
「気」 その考えの変遷
本日の話の冒頭はその見えているようで見えていない、われわれの身近を取り巻く[気]に付いて、私の[[気]その考えの変遷]を語り、次いで[臨床における時間・空間論]につなげていきたいと思います。
まず[き]には色んな字があるんですね。片仮名は除きますが、ひらがなを交えて三つあるんです。そのうち[氣]はお米を炊く時に出てくる湯氣を象徴している字なので、われわれが問題とする[き]とは意味が違うので外します。われわれが問題にする[き]は[气]もしくは[気]の字で現されるものです。そこで[気]のつく言葉を思いつくまま羅列してみました。スライドは、十数年前、福岡で開催された全日本鍼灸学会学術大会の市民講座で、[気]について私と哲学者とお坊さんとの鼎談の際に使ったものです。小さな字で恐縮ですがなんとか見えますよね。
「気」のつく言葉
「気」のつく言葉
[空気]から始まり[気象]にまつわる色々な[気]があります。いわゆる宇宙現象を表すのには[気]の字は欠かせませんね 。また[電気]に始まる物理現象も同様です。[景気]とか[雰囲気]という社会現象を表現するときも[気]は使われます。[気質]から始まり[和気藹々][気まずい][妖気][浮気][色気]などは魂・精神状態・その活動を言い表していますね。そして[元気][病気]をはじめとして医学関係、特に東洋医学関係では、[宗気][精気][気虚][気滞][気鬱]などなど、生理・病理の状態表現のために[気]の字とその概念は欠かせません。以上、[気]の付く言葉や概念が、いかに我々の周りに満ちみちているかを理解して頂ければ結構です。
羅列した文言を総括しますと、[生命世界・空間の場と、その活動状態]を意味しており、その意味するものを[気]という一字で代替し表現し得るのではないかという考えが、私の雑念勝手論の地平にあります。
その論拠についてお話しします。まず、[生命世界・空間の場]の[場]とはなんぞやという問をたてます。清水博先生著の『場の思想』―2003/7初版・東大出版会―を借りますと、『場とは自分を包んでいる全体的な生命の活き(はたらき)のことである』。とあります。この文節の前に、[場]を理解するのには、自分が自分の体の一つの細胞になったと考えてごらんなさい。その細胞が居座った時、細胞がそこへあった時、その全体が[場]と考えればよいのだよという説明がありました。この説明を支えとして、やや飛躍しすぎた突飛な考えとご批判もあるかと思いますが、[場とその活動状態]は[気]という一字概念で包括し得るという考えに至った次第なのです。
この[気]という言葉を目にし耳にすると、たちまちに想起する言葉があります。ご存知の、荘子『荘子』外編・知北遊編 第二十二にある、
『人之生、気之聚也。聚則為生、散則為死』
人の生や[気]のあつまれるなり、 あつまればすなわち生となり、 散ずればすなわち死となる。
です。
[気]が聚まって生となり[気]が散じて死んじゃうんだ、と。[気]の消長を言い当てて誠に妙です。
生死を分ける「気のライン」
生死を分ける「気のライン」
[気]の聚と[気]の散との間には両者を分けるラインがあるはず。すなわち生死を分ける lineがあるはずで、私はこのラインを[気のライン]と名付けています(Dead lineに相当)。そして[気]の聚はただ[気]が聚っているだけではなく絶えず活動して動的な平衡状態を保っている。これが東洋医学における[生の認識]です(スライド参照)。 ですが、ここで改めてもういっぺん[気]というものは一体何なんだろうかということを考えてみたいと思うんです。
話柄はガラッと変わります。一挙に21世紀の科学の問題になりますが、私の認識はこれからご説明する範囲でしかないので、この件に関するご質問は一切お受けいたしませんので、悪しからず。(一同笑い)
1981年、前世紀末に、ビッグバンに伴って宇宙にはこういう現象があったということを東大の佐藤先生が提唱されました。それは[インフレーション理論]というものです。当時は画期的な理論として注目され、その後やや下火になりましたが、昨今の素粒子等の新知見とともに再び脚光を浴びつつあるようです。で、インフレーション理論とはどういうことかと言いますと、初期の宇宙が指数関数的な急膨張を起こしたという初期宇宙の進化モデルなんだそうです。これ以上の事は聞かないで下さい(スライド参照)。(一同笑い)
「無」から創生した宇宙
「無」から創生した宇宙
佐藤先生のお話によると、宇宙は[無]から創生したというのです。ところで、宇宙物理学的に[無]はどのように解釈されているんだろう、と読み進んでいきますと佐藤先生は、『常識的には[無]というのは何もない状態なんだろうが、物理学的には[ゆらぎ]のある状態』である、とちょっと訳が分からない事をおっしゃっている。じゃあ、[ゆらぎ]とはなんだろうかというと、『[ゆらぎ]とは、素粒子の生成と消滅が繰り返されることにより起きていて、物理的にはこの[ゆらぎ]は消せない』んだそうです。で、この理論を目にした時には何がなんだか分からなかったんですが、最近のノーベル賞受賞研究によってみると、ニュートリノとか、素粒子とか、我々には全く見えないけれど我々の生活世界には満ちみちてあるものがあるんだなということが実証されてきましたね。そうするとそういう見えないものが[ゆらぎ]なんじゃないかと・・。言い換えれば、無と有の間を[ゆらいでいる]状態、これも訳の分からな言葉ですけれども、まあそんなような状態だと理解できるようになりました。
「ゆらぎ」の視覚化
「ゆらぎ」の視覚化
そこで[ゆらぎ]の視覚化を試みてみました。すると、ゆらいでいる情景は[気]の字の象形の鋳型と思われてきたのです。こじつけとは思いません。よし、こじつけと言われようとも私は私の勝手論としてそう思ったのです。
宮川先生からさきほど道教のお話がありました。その後の12世紀には儒教を基にした朱子学が台頭してきますが、その朱子学の中心人物に朱熹という人がおります。その朱熹が、生命現象を含めた世界というものの認識をまとめた著作があります。その中で朱熹は、[気]は見えないけれど物理的な存在であると明言しているんですね。で、微細な[気]の存在というものを前提として、[気]は異なったエネルギー状態にあって激しく運動の変化を起こしている。その積極的な運動の層が陽であり、消極的な静止相が陰であって、この陰陽の働きによって[五気]が生まれる。全ての万物はこの[五気]によって生成されていると言うのです。そして[五気]がそのままの状態を保っていれば気体であり、凝結すると液体になり、凝固すると個体になる。この[物質の相転移現象]を、世界ならびに人間を理解するための基本的な考えであると朱熹は位置づけた訳です(スライド参照)。
ここで余談を挟ませていただくことをお許しください。[気]にまつわる私としては貴重な体験談なのです。その体験とは、先の[気]の付くコトバのスライドにたまたま漏れていた[気配]というものについてのことです。
昨年(2016年)の夏の某日。早稲田大学オープンカレジの聴講(『正法眼蔵』の講義)の席で、いつもより講師の声が小さいなと感じたのが前兆でした。それから三日後、数年前に右耳の聴覚を失い左の耳にしか残っていない聴力が完全に失われ、全聾状態に陥るという不運に見舞われました。診断は突発性難聴でした。主治医の次の外来日を待つまでの一週間、無音の世界に居場所を移すことを余儀なくされ、有音の世界との違いの中で、大きな気づきがありました。その気づきとは、ものの[気配]、特に人の[気配]を全く感じなくなったことです。衣擦れの音が醸し出す色[気配]の娑婆世界とは違い、経典にも出てこない別世界です。そして恐ろしい世界と感じました。言い換えれば自分の周囲(場)には波動([気]の動き)がないのです。その感覚が、人間には蝙蝠が発する超音波に似たある極微のものを発していて、その波動を捉え、周囲の世界を感知しているのではないかという思いを強めました。その極微の跳ね返りを感知する聴覚機能が崩壊してしまうと、現今の人類とは形態は一緒でも、別種の人類として無音という名の別世界([気]が感じられない世界)に居場所を移さねばならないということも・・・。短時日とはいえ無音の世界に移り住み、[気]を感じられなくなったことで、逆に見えないけれど[気]は確実に実存することを知った実体験談としてお耳を拝借した次第です。
話を本筋に戻します。今までお話したことを念頭に、もう一度荘子が言う生と死に伴う[気]の消長を振りかえってみます。
荘子の『人の生』は[気]の聚るところの文言を[宇宙の生]に置き換えてみます。次に[無]は先ほどお話した通り物理的には[ゆらぎ]として消せないんですから、これを[気]に置き換えてみます。すると、人の生の[気]と宇宙の生の[気]とは全き同根であると解釈できる図式が成立します。つまり、東洋医学でよく言われる[人体は小宇宙]という文言の由来が明確に認識できるようになります。愚見ですがこの図式が東洋医学における基本的な生体観の理解を助ける図式と考えていますが、いかがなものでありましょうか(スライド参照)。
以上に関連して、昨年は、四世紀に生きた中国の僧肇が現した肇論にある『天下我と同根 万物我と一体』、という文言の紹介をしました。今年は道元禅師が『正法眼蔵、唯仏与仏巻』でおっしゃっている言葉を紹介します。
尽大地は是れ真実人体なり
人間の体は小宇宙であると喝破しておられます。大変重い素晴らしいお言葉です。覚えておいて欲しいコトバです。
くどいようですがもう一度荘子の言葉に還ります。
[気]が散じると死になるという言葉の解釈ですが、つい3,4年前までは、散ずるとは滅することに通じると思い込んでいました。が、この解釈は非常に表層的であることに気づきました。散とは字義の通り散ってバラバラになるということで、消滅する滅とは次元が違う現象であることに、お恥ずかしいことながら遅まきながら気がついたのです。では、消滅せずにバラバラに散った[気]はどのような状態なのであろうか、それについては後でゆっくりお話しするとして、[気]が聚って生となる状態に関する西洋医学と東洋医学の考え方の相違について復習しておこうと思います。
西洋医学では生の状態を、検査値(基準値)というラインを設け、そのラインを境に健康と病気とを分けます。いうなれば病気(病態)を検査値の異常値をもって可視化するんですね―見えるもの・かたちにする―つまり文明です。そして病態を健常態に対しネガティブな現象として二極対立的に位置づけます。一方、東洋医学は検査値(基準値)というようなラインは元々ないわけで、生きている限り[気]の動的状態は保たれていると認識し、生全体はポジティブな現象と位置づけます。そして[気]の動的状態が衰えてきた状態を病態と捉え、健常態から病態に移行する領域に未病という概念を挿入して、連続性をもって生全体のポジティブな現象―生きていればこそ病気にもなるのであって、死んでしまえば病気にはならない―を認識するのです。しかし、この間の[気]の消息の可視化はできません。つまり文化です
洋の東西における病気の考え方
洋の東西における病気の考え方
西洋医学では検査異常値で示される病態はネガティブな状態として否定的に捉え、東洋医学では病態も生の一環としての生体反応―[気]の消長―として肯定的―ポジティブに―に捉えるのです。したがって治療のベクトルは西洋医学では否定部分を取り除こうとする方向性を持ち、東洋医学は肯定部分を是認する方向性を持ちます。発熱を例にとれば、西洋医学の治療はまずは解(下)熱対策が先行するのに対し、東洋医学ではまずは必然性を帯びた生体反応と捉え直ちには解(下)熱のための治療は控えます。この違いを西洋医学的治療は[対治]、東洋医学的治療は[同治]という言葉で表現し、区別します。
その2へ続く