<出典情報>
初出 鍼灸師育成シンポジゥムにおける基調講演(2015年5月6日,成城ホール)

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「鍼灸の風景」その4

最後に、じょの臨床のお話をします。
四苦八苦という言葉はご存知ですね。四苦とは生・病・老・死を言います。人間は本質的に苦の担体であり、生きている上での宿命的・運命的なものです。
さて、病気(または疾患)は、“病いやまい”と“患いわずらい”とに分けて考えられます。病い(通常は病名を指す)のかたちは視覚的に認識することができる、つまり客観的に把握できる事象になりました。例えば血圧をはじめとして、血球数、コレステロールの血中濃度、腫瘍マーカー等々は数値で、心臓の電気的興奮状態は心電図で、脳の形態と血管や興奮状態はMRI、MRA、fMRIで視覚的にとらえられます。
病いと患い
一方、患いは数字では表すことができない主観的な事象であり、いわゆる人間が抱える苦の本体で、本質的に視覚化・数量化できるものではありません(スライド参照)。その内容は人間的・情感的であり、さらにきわめて個別的なものです。が故に、極言すれば、自然科学を認じ、視覚情報・数字に依拠する現代医療(法でいう狭義の医療)は病いに対しては得手ですが、患いに対しては不得手と言っていいでしょう。だいたい現代医学の教育課程には、患いに向かい合う人間的素養・コミュニケーション論的な教科などは無いに等しいのですから。
では、素朴な疑問ですが患いを得手とする医療はあるのでしょうか。あるのです。それが“もう一つの医療”であることはもうお分かりのはずですね。“もう一つの医療”の本質は同治です。患いという荷を共に担ぎ、まずは荷の重さを減らしてあげることから始まる医療です。ですが“もう一つの医療”(漢方を除く)は狭義(法的)の医療には含まれていないのです。
第3回世界鍼灸学会連合会(1993年、於:国立京都国際会館)の特別講演で私は医療の概念形成について一言申し加えました。その講演を基調とした「高齢者ケアのための鍼灸医療―鍼灸の新しい概念を求めて―」と題する本を出版(医道の日本社発刊;1995初版 すでに絶版と聞く)していますが、その一節を紹介します(本書46頁)。
●医療とは―広義の概念
「医療」という語彙について、はっきりした概念形成を行っておくことが必要になってきました。
佐藤淳一氏の言葉を借ります(佐藤淳一:医療原論構築のためのメモ、講座 人間と医療を考える1 哲学と医 療,pp.109-137,弘文堂,1992)。氏は、我が国では専ら近代医学の治療のみを「医療」と呼ぶ、いわゆる狭義の概念が支配的であるといいます。しかし、さかのぼって歴史的に「医療」のイメージを求めても、「病気・健康をめぐる人間の概念と行為」は極めて多様であったこと。さらに、現代社会においてもこの多様性が実存するばかりでなく、近代医療とは関係のない「治療の方法・形式」の数と領域は、むしろ近代医療の発展・展開と共に減少するどころか増加している事実を論拠として、近代医療だけを医療とするのではなく、たとえ近代科学や近代合理主義からみて非合理であっても、その時代その社会の文化・観念に支持された<「病い・治療・健康」などをめぐる社会的文化的事象>を「医療」と考えるべきであるとして、「医療」に関する広義の概念を提唱しております。筆者(私)は「医療」にこのような広義の概念を及ぼすことに満腔の賛意を表します。
医療の概念
筆者(私)には、鍼灸医療のidentityというものは、人間社会には広義のしかも複数の医療が存在し、それぞれがそれぞれの存在を認め合い、またそれぞれが多少とも相互浸透性である「医療」の社会的基盤に立って論じられなければならないという、確信にも似たものがあるからです。その基盤とは、佐藤氏がいう「病者が自由に選択しているかぎりにおいては複数の医療は同じ医療として等置される」というものであり、医療を人間科学として位置づけた基盤であります。」 
ちょっと理屈っぽい話になって、眠気を催したらごめんなさい。要は「医療」とは、狭義の医療と“もう一つの医療”とが等置されているかたち・広場でなければならないということを言いたいのです。
その昔とある学会で、「『鰯の頭も信心から』ということわざがあるが(江戸期、節分の夜、鰯の頭を柊の枝に差して、戸口に飾り、鬼を追い払うという習慣があった)、それ(信心)でその人の患いが癒えたらその当人にとってそれは医療だ」と発言したところ大変なブーイングを浴びたことがありました。
それから、つい先だってのことですが、知人の初老のご婦人が、最近手指の爪先が猛烈にしびれて、冷たくて、どうにもしょうがない。で、ちょっと思いついてマニキュアをしてみたんだそうです。普段はマニキュアなんかする方じゃないのですけれども、何だか分からないけれどもマニキュアをやってみた。そうしたら途端に指先が暖かくなって症状がとれた、と仰るんです。「どうしてでしょう?」と尋ねられても、「うーん、どうしてですかねー・・・」と言葉を濁しながらも、でも、私の心の中では、その時点で、その症状に対して奏功したマニキュアは貴女にとっては医療なのです、という答はあったのです。が、なかなか理解しにくい問題なので、言葉にして返答することは控えました。でも、私ははっきりそう思っています。
話がちょっと横道に外れました。患い、の話に戻します。
これからお話しますことは、本日特別講演をお願い致しました大槻宏樹先生(早稲田大学名誉教授、早稲田オープンカレッジ講師)の講義中のつぶやきに端を発します。早稲田オープンカレッジで先生の講座 Death Education を取らせていただいたのですが、老人医療のお話の中で、こんなつぶやきがありました。
「近ごろの病院外来で呼び出しのアナウンスに『○○様』と呼ばれることがあるが、患者に『様』づけはなんとなく空々しく聞こえる。そもそも患者という字が気に入らない。頭から串刺しにされているように見え、差別的な感じさえ受ける」
というものでした。ですが、私にとってこのつぶやきが大変なヒントを与えてくれるものになったのです。
昔から「作文三上」という言葉があります。物を考える、文を作る、その格好の場として一つは馬上、馬に乗っている時、二つ目は枕上ちんじょう、まくらの上、三つ目は厠牀上ししょうじょう、トイレで座っている時ですね。その夜、しばし枕上で考え続けました。そして考えたことを手紙にしたため大槻先生にお送りしました。その手紙の文面を披露させてもらいます。
季節のご挨拶、平素のご指導を感謝申し上げる文言に続き、
『話柄は替わりますが、患者さんの患の字について患者側に立った現実的なお話(つぶやき)がございました。おっしゃる通り「串刺し」と言われると、なんとなく現身うつせみの苦痛と、あわれさをも含意した字感ではあります。
patientはpatience ―我慢する― の名詞形で「我慢する人」であることは御承知の通りでございましょうが、これを日本字に当てた場合、「患者」より仕方がなかったのではないかと思いますうちにも、我流ではありますが、私は、我慢しているという憐憫よりも、「よく我慢していてえらい人だなー」と、むしろ尊敬の念を添えて捉えております。
医療人類学では「疾病」を「病い」と「患い」とに分けて考える見方があります。「患い」は「病い」を因として派生する身体的・精神的な純人間的な苦しみとします。「病い」は可視化・数値化は可能ですが、「患い」は極めて個人的で数値に置き換えられる性質のものではありません。通常、病む人の多くは、この「患い」という念慮の重みに苦しんでいる(自覚している場合もあればしていない場合もある)状態にあると、私は思っております。
そこで、考えたことがございます。患の字を串と心にバラします。そして串を横にして二つの箱を外方向に引き離しますと、天秤棒の両端に箱(荷)がぶら下がった形(スライド参照)になります。
「患」者のイメージ1
この形を実地臨床に繋げます。
『対面する患者さんの姿は、天秤棒で重い荷を担いでいる姿(患の字姿)と思いなさい。箱には患いの種がいっぱい詰まっている。そこで医療者は、患者さんが天秤棒を肩から外し荷を下ろし、箱の蓋を開いて中身が全部見えるようにしてくれるようなコミュニケーションを実践しなさい(傾聴・共感)。そしてまずは天秤棒をこちらに預かる。次に箱の中身を整理して不要なもの(いらぬ心配事)などを取り出し荷を軽くしてあげる(箱を一つに減らすのも良し、皆空っぽにしてあげるのも良し、もしくは天秤棒ごと預かるのも良し)。つまりは、患いという名の重荷をできるだけ軽くしてあげる、もしくは重みを肩代わりして、心にかかる負担を減らしてあげるというほどの利他・布施心に徹した臨床を心がけなさい。』
「患」者のイメージ2
あるいは、『患者さんの姿に患の字形を重ね合わせたイメージ像を作りなさい。重い袋を二つも頭の上に乗せて喘いでいる姿を(スライド参照)。その袋の中身は患いがぎっしり詰まっていると思いなさい。しかも袋が動かないようにクシ刺しにされ、クシの先端は頭皮にまでおよんで、さぞ痛かろうと。 
そうイメージすれば当然のことながら、医療者とすれば先ずはクシを引き抜いてあげようと思うだろう(スライド参照)。その思いは積極的なコミュニケーションに現れ、さらに共感を伴った営為を心がければ、患者さんも協働して、クシを引き抜いた穴から患いを追い出すことができるようになるだろう。それがPCM (Patient-Centered Medicine) 実践の臨床の姿だ。』
いかがでございましょうか。先生の余談とおっしゃった一言(つぶやき)が、PCMを説くに、新たな教育言語(比喩)を授けて下さったようで、感謝をしております。
恕の臨床の入口
以上の書簡の中の、竿を外す。串をポイっと抜いて捨てる。このテクニック、それが傾聴です。共感を携えての傾聴。とにかく聴く、心を傾けて物語を聴く、そしてその物語を尊重する。いわゆるナラティブ・アプローチの入口(Narrative based Medicine)であり、私の言う恕の臨床の入り口になるのです。
では、[恕]とはどういう字義を持っているのでしょうか。私が担当したある授業の学生用配布資料の末尾に、”自分がされて嫌なことは人に向かってしないこと”という文言をゴシック体で載せたことがありました。それに目を留めた宮川先生が「これは「恕」のことですね。どこでそのこと(言葉)を知りましたか」とおっしゃったのです。「いや、どこということはなく、自分で考えたことです。」と返事をしたところ、「あなたは孔子を超えた」と、突拍子もない言葉が返ってきました。えらく褒められたのか、おだてられたのか、からかわれたのかよく分かりませんでした。が、続く宮川先生のお話の中で、孔子の弟子の子貢が、生きている間に実行すべきことを一言で尽くせる言葉を教えてくださいと問うたところ、孔子は「それは『恕』である。己の欲せざる所のものは人に施すことなかれ」と答えたことが『論語』に記載があるということを知りました。
「恕(思いやり)」を籠めた臨床詩
「恕」の解釈はいろいろあります。原爆投下何年目かの記念式典の折に、NHK交響楽団の演奏に先立って日野原先生の記念講演がありました。その中で「恕」を紹介され、先生は恕を許すと解釈されました。キリスト教のお考えでしょう。が、私はもうちょっと積極的に「共感・思いやり」と解釈しています。
その思いやり(「恕」)を籠めた臨床詩を作りました(スライド参照)。
聴いて診て 応えて触れて 病む人の 患う心に 添う思いやり
まず、「聴いて診て」ですが、ここは、問診と聞診、「診て」には望診が入るでしょう。「触れて」は切診。これで四診が詠われます。「応えて」とは共感です。共感は医療面接によって生まれます。ここが問診と医療面接との大きな違いであることを力説してきました。医療面接を鍼灸教育の現場に持ち込んだ時、大変な抵抗に遭いました。ある研究会では、医療面接の説明をしている私の面前で「問診と医療面接とどこがどう違うのですか。国技館の相撲の土俵の上でプロレスをやっているような違和感を感ずるのですが・・・」と、こんな発言を堂々とする教員もいる時代がありました。
恕の臨床の姿(風景)
次の「病む人の患う心に添う思いやり」っていうのがいわゆる恕の心でして、以上の段取りをきちっと踏まえ実践することが、恕の臨床の入り口ということになります。
もう一遍言いますと、「聴いて診て触れて」というのが、望聞問切。「応えて病む人の患う心に添う思いやり」が共感。それに、一鍼、一灸、入魂の治療とが加わって、恕の臨床の姿(風景)が整うのです。
さて、そろそろ本日の講演の標題である鍼灸の風景の取りまとめにかかりましょう。
三木清さんという方の『哲学入門』の「人間と環境」の項にこんな一節を見つけました。
「人間と環境とは、人間は環境から作られ逆に人間が環境を作るのである」
「人間は環境を形成することによって自己を形成してゆく、―これが我々の生活の根本的な形式である。我々の行為はすべて形成作用の意味をもっている。形成するとは物を作ることであり、物を作るとは物に形を与えること、その形を変えて新しいものにすることである」
勝手ながら環境を風景に読み替えて話を進めます。
現代にいたるまでの世間秩序・制度の変革も大きな要因となってはいますが、先人が築いてきた医療界における鍼灸医療の居場所・風景はなんとなく模糊として霞んでいるように見えて仕方ありません。そこでこれまでお話ししてきたことから、医療界における現代医療と“もう一つの医療”の住み分け・役割分担をはっき再認識して、ぼやっとした風景から脱して欲しいのです。
治未病医療・積極的養生医療という鍼灸が主張する鮮やかな色彩を、伝統というキャンパスに彩って欲しいのです。そしてそのキャンパスは現代医学のキャンパスと一対をなし、文化として記録されるばかりではなく、文明の中で語られる風景の中に定置されなければなりません。
医療も文化の一事象ですから、医療の一角を占める鍼灸医療も文化なのです。しかし、不易流行(芭蕉)を心得なくては文化の遺産として床の間の置物に終わってしまいます。次の時代に生きた文化として繋げて行くためには、受容は肯定的に継承は批判的に、現代という時代の洗礼を受け、現代文明という風景の中に溶け込まなければいけません。
「風景が人を作る。風景を生きている。自分の背景には風景がある。」「背負っている風景。自分を創っているものは風景だ(長田弘)。」数々の賢人の言葉があります。またホセ・オルテガ・イ・ガセットの言葉に「あなたが住んでいる所の風景を話してくださったら、あなたがどんな人だか言ってあげましょう」というのがあります。
開業しておられる貴方がたが背負っている風景。それを語ってくれればその地域の医療界の中で、貴方がどんな役割をはたしているか言い当てて見せますよ、と言われているようですね。
患者さんたちは貴方がたが背負っている風景に安堵感を求め、あるいは感じてこそ来院されることは間違いありません。
貴方がたそれぞれの立場で、それぞれ個性豊かな、そして信頼され、患者さんに安堵感を与える、貴方がた背負っている鍼灸の風景を作ってください。そしてそれは、恕に満ち溢れた風景であってほしいのです。
老骨に講演の機会をお与え頂いたこと、それに眠気を抑えてよく聴いて頂いたことに対し満腔の感謝の意を捧げ、私のお話を終わらせていただきます。ありがとうございました。
講演中の丹澤章八氏