<出典情報>
初出 鍼灸師育成シンポジゥムにおける基調講演(2015年5月6日,成城ホール)

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「鍼灸の風景」その2

「風景論から鍼灸を考える」という話に移ります。
東京駅を発って小田原を過ぎると富士山が姿を見せ、熱海、静岡を経て名古屋に着きます。さて、名古屋を過ぎると、こんな景色が現れます。―でも、リニアになればトンネルが多いのとスピードが速すぎてこの景色は見えないでしょうね―。
東海道新幹線の車窓から見える風景(日本の田園風景)が連続して現れて画面は左から右へと流れ、新幹線のスピードを体感するように流れ方が次第に早くなる
そして、京都に着きます。京都で山陰線に乗り換えて明治鍼灸大学に着く。家を朝7時に出て、昼頃大学に着き、教授会に出席して、それから2コマ講義をこなし、大学を4時か4時半ごろ失礼し、また山陰線から京都で新幹線に乗り継いで帰ってくる。京都では改札口から外へは出ない。無駄遣いはしない。という事で、家に帰ってくるのが夜11時半頃ですか。この道程を1か月に2~3回程度、11年間続けたわけですね。
この当時の新幹線にはまだ2階建てのグリーン車がありましてね。階段を昇るとすぐ左側に孤立した一席だけのシートがあるんです。往(ゆき)には必ずその席を取って、パソコンで原稿を書いたり、その日の講義の再チェックをしたり、移り行く風景を眺めたり、周囲に気兼ねせず干渉もされずゆったりとした時間を過ごしたものです。
そんな東海道の旅を続けているうちに、名古屋を過ぎたあとの車窓に写るある景色(スライドの田園風景)が視界に現れると、何とはなしに言い知れぬ安堵感を感じるようになったのです。その風景とは、司馬遼太郎の『街道をゆく』に出てくるような景色。それはいまでも残る昔の街道沿いに、ひときわ高く大きい切妻きりつま造りの瓦屋根が目立つお寺(浄土真宗のお寺であろう)を中心にしていらかを寄せ合う小さな集落があり、周囲は畑に囲まれ、背後は里山を隔ててなだらかな丘につながっている。そして集落とはちょっと離れたところに集落を見守るように孤高の気が漂う鎮守の森が見える、そんな景色です。こんな景色が新幹線沿線にはまだ点々と残っているんですよね。この景色がうまく形容できないのですが、言うに言われぬ安堵感を私に与えてくれたのです。なぜだろう。じっくり考えてみました。そう、まことに奇想ではありますが(気が狂ったのではありません)、それは時空を超えて出生前にさかのぼって(エピジェネティクス?)染み付いている心象の風景と重なり合うような感じがしたのです。その懐かしさの延長が言い知れぬ安堵感に繋がっているのではないかと考えたのです。この景色(風景)を“大和(やまと)の国の原風景“と命名しました。
(ここで演者は『ふるさと』の出だしの一小節「♪兎追いしかの山」を口ずさむ。その後通常の口調にもどり)「小鮒釣りしかの川」。みんなが知っている歌ですね。この歌を聴いて心に浮かび上がる景色は、日本人であればロッキー山麓の景色ではないでしょう。雑木林の中に小川のせせらぎが聞こえる、そんな風景をイメージしますよね。大和の国人くにびととしてこれは異論のない所だと思いますが・・・。
ロッキーの麓と奥入瀬の清流
で、中国の古典に僧肇そうじょうというお坊さんが書いた『肇論じょうろん』というのがあるのですが、その中に今でも生きている言葉で「天地我と同根 萬物我と一體」という言葉があります。
先ほどお見せした風景(スライドの田園風景)、それは心の深い所で出生前の心象と重なり合うと私がいった“大和の国の原風景”と、伝統医療とは、安堵感をキーワードにすると、両者は同根でつながるのではないかと考えるようになりました。
さて、1976年ことですから、だいぶ古い話になります。この年の中国は文化大革命最後の年でしたが、毛沢東主席はまだ存命でした。その年に、現代中国針法の研修のため神奈川県から上海中医学院(現上海中医薬大学)に派遣され約4ヶ月中国上海で暮らしたんですが、研修が進むほどにある感慨が湧き、その感慨がだんだん膨らんで大きくなっていきました。それは、中国医学を中国の人は祖国医学と言っていましたが、その祖国医学の中の針灸医学に対する国と民衆とが持つ認識(≒信頼度)に関する問題です。その感慨をうまく表現できませんが、かりに風景に譬えればこんなものになります。それは万里の長城が視野に溶け込む中にも人工構築物の底から槌の音の残響が今なお聞こえるグローバルな風景。そんな風景です。
その一方で、ならば現代の日本の鍼灸医学を風景に譬えればどうなるだろうと考えてみました。イメージできたのは、堂宇に導く竹林の小径から自然のささやきが聞こえてくる静粛なローカルな風景でした。中国に居てこんな対比的な風景が私の心頭のキャンパスに描かれたのです。
万里の長城と竹林に沿う小径の風景
が、しかしです。帰国して数々の臨床経験を通して考え付いた先は、たとえローカルな風景であってもそれは日本人の心の中にあって、時を超えた安らぎを与えるものである。繰り返しになりますけれども、“大和の国の原風景”と伝統医療は同根である。すなわち伝統医療は心身に安堵感を与える医療である。千年余にわたって人口に膾炙されてきた源はここにある、と確信するようになりました。
私は伝統医学、就中なかんずく、鍼灸医学をこのように捉えて臨床実践を続けています。
ここまでで、このセッションの前半のお話は終わりです。
続けて後半の話しに入ります。では、鍼灸医療は医療としてどのような価値、役割があるだろうかというお話です。
この麻雀のスライドは見た方はいらっしゃると思いますが、見たことがない方々もおられるようですのでざっとお話ししておきます。
生活習慣病発症の経緯を麻雀に譬える。スライド上段は聴牌てんぱい双六すごろくでいえばあと一振りで“上がり”の状態―で生活習慣病予備状態を現し、下段は “一萬もしくは四萬の牌(上がり牌)”を手中に納めたら和了ほうら―“上がり”でこのゲームは終了―する、すなわち生活習慣病の発症状態を現す
国は平成9年に成人病を生活習慣病という言葉に置き換えました。新しい言葉の理解と普及のために厚生省のその当時の政策課長さんが随所でお話になった内容を、私が絵に直してみたものです。要は健康と病気は二極対立的な考え方(従来の西洋医学的思考枠)から、健康と病気とは連続的な考え方(東洋医学的思考枠)への転換であり、その連続性の意味を未病の概念を導入することによって理解を深めてもらおうというものです。説明は麻雀を譬えとして、生活習慣病発症には予備状態がある。その予備状態を含めて発症までの時期を総じて未病と捉え、未病の時期に麻雀でいうなら“上がり牌”の素性をしっかり認識し、できるだけ手中に収めないように心掛けることが大切であり、できれば“上がり牌”を攫まずこのゲームを終わらせないことが望ましい(そんなつまらない麻雀は何人もやりたくないのだが・・)ということです。つまりこの“上がり牌”とは、喫煙・飲酒・運動不足・肥満・ストレス等々の生活習慣病発症の高リスクファクターそのものであることを、また未病はそのリスクを背負っている状態であることをしっかり認識する必要がある。したがって生活習慣病の予防は未病の期にこそ大切であり、公が行う対策とともに個人も悪い生活習慣の改善に意を尽くして欲しい、という内容なのです。
で、この説明では、未病は生活習慣病予備状態から生活習慣病発症に至る時間的経過の中での身心状況の代替表現のように見えます。ですが、我々がいう未病はそのように限定されるものではなくもっと広い意味、生活習慣病予備状態になる前も、生活習慣病を症発した後の人生終局に至る間も―ライフステージ全般にわたって拡散している―、最近のフレイルなどの概念はまさに未病そのものと捉え得るわけですから、僭越ながら、我々が持つ未病の概念をはっきりさせるためにその分をスライドに書き加えました(スライド上段と下段の未病)。
さて、ライフステージに未病という概念が定置されたからには、当然のことながら未病に対する対策も未病対策として位置づけられることになります。その現代医学的対策は従来から言われている予防医学が相当するのでしょう。スライド上段の未病には一次、中段の未病には二次、下段の未病には三次予防と言われるものです。でもなぜ一次、二次、三次に分ける必要があるのでしょうか。それは各時期によって対策の内容は異なるからです。このことを第一点とします。またなぜ予防医学と言って予防医療と言わないのでしょうか。それは対策の内容に公衆衛生的要素が多く、かつ対策の対象はもっぱら集団に置かれているため、個別性というニュアンスを持つ医療という言葉が相応しくないと考えるからでしょう。このことを第二点とします。―しかし、最近は予防の分野に医療という言葉が使われるようになりましたが、そのことは後でお話しします―。
結論を急ぎます。未病に対するに、いま申し上げた第一点に対しては個に対して普遍性と連続性を持ち、第二点に対しては個別性を第一義とする医療的対策が、予防医学と並行して行われてこそ現実的な未病対策の姿と言えるのではないでしょうか。言いたいことは、その姿を実現させるために、第一点と第二点とを共にカバーして予防医学と並行して行われる医療、私が言う“もう一つの医療”の存在が必要であり、その医療の担い手こそは伝統医療であるということです。伝統医療は現代医療を代替・補完するものではなく、現代医学的対策と並行する治未病医療であることを、再認知・再認識し実践することが必要だということです。そして“もう一つの医療”の筆頭に鍼灸医療があると私は考えています。
もう一言加えるならば、“もう一つの医療”は、未病のシェアを狭めて健常のシェアを広げるベクトルを持っている。すなわち、巷間が養生という文言に対して何となく持っている現状維持的なニュアンスを超え、個別的に健康状態をよりよく築いていくというベクトルを持っている。そのベクトルに積極的という形容を当てることこそが至当であると考え、治未病医療の核たるべき鍼灸医療の主機能である養生に、この言葉を冠して積極的養生医療と呼称し始めた根拠もそこにあるのです。
では伝統医療(鍼灸医療)が、治未病医療(養生医療)の担い手である意味を説明しましょう。
で、これも何回もお見せしたP.P.ですが、治未病医療の位置づけの理解に役立つと思いますので復習の意味もかねてお聞きください。
医療を構成する要素の変化
近世までは漢方・鍼灸は医療界のメインでした。近世の終わりになると、蘭方がはいってくる。が、まだ治療的要素も養生的要素も漢方・鍼灸に託されたいわゆる通常医療であり、これに対し蘭方は外科的治療的要素が主のいわゆる代替医療であった。この構図が近代から現代にかけて機能的に外化が行われた結果、治療的要素がもっぱらの蘭方と漢方・鍼灸との座が入れ替わる図式に変わります。がしかしです。(スライドを見てお判りのように)本来的に蘭方→現代医療は養生的要素は持ち合わせていません。一方漢方・鍼灸は治療的要素は蘭方に譲ったとしても、現代に至るまで養生的要素は従来からの姿(質・内容とも)を変えることなく継承されてきているのです。
言い換えれば、治未病医療に該当する養生医療は今日時点においても“もうひとつの医療”として漢方鍼灸に託されているのです。ここのところの認識が伝統医学実践者に希薄になっているように思えてなりません。再認識を強く促すものです。
その3へ続く