<出典情報>
初出 鍼灸師育成シンポジゥムにおける基調講演(2015年5月6日,成城ホール)

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「鍼灸の風景」その3

その2までで、伝統医療なかんずく鍼灸医療は、治未病医療として現代に継承されており、その内容は積極的養生医療であることを説明してきました。ここ(その3)ではもう少し詳しく、鍼灸医療が現代医療とジャンル(領域)を異にする“もう一つの医療”と称するわけを説明し、その“もう一つの医療”が医療界にどのように位置づけられるかについて私の考えを述べることにします。
DNAの解析が進んで、単因子遺伝性疾患はおおかた特定できるようになり、引き続き多因子遺伝性疾患、例えば生活習慣病等になりやすい人などの特定もできるようになりつつあるようです。それで、これからはDNAを中核とした医療、例えば数ある高血圧の内服治療薬の中からどの薬剤がその患者さんに最も効果的であるかを、患者さんのDNA情報に基づいて選択・治療できるような個に応じた医療の時代になる。その流れは一次予防領域へも拡大し、生活習慣病を含めた種々な難治性慢性疾患等の高リスク群の選別が可能になり、新たな対策も生まれることになるでしょう。どちらかというと普遍的・標準的である現代医療が個別戦略的医療に変わっていく。その姿をオーダーメイド医療と称して喧伝するようになりました。
さてそこで考えてみてください、伝統医学なとりわけ鍼灸医療の本質(面目)は、まさしく極めて個別的な医療(オーダーメイド医療)ではなかったでしょうか。じゃあ、現代医療がいうところのオーダーメイド医療とどこが違うのでしょうか。検証してみましょう。
答えは簡単です。それは個の概念に相違があることなのです。すなわち、現代医療で言う個の対象はDNAレベルであるのに対し、伝統医療で言う個は“身心一如”のレベル、言い換えれば全人的レベルであることに両者の間に大きな違いがあるのです。この概念の相違はジャンルの相違を意味します。ですから、現代医療を通常医療と呼ぶとすれば、伝統医療は通常医療の代替でもなければ補完するものでもないジャンルを異にする “もう一つの医療”と呼ぶべきだと思うのです。お分かりいただけますね。
そこで私はその相違をもっとはっきり認知していただくために、現代医療で言うオーダーメイド医療は“細胞大のオーダーメイド医療”、伝統医学で言うオーダーメイド医療は“等身大のオーダーメイド医療”と名付けました。
このスライドは前世紀末から使っていますので、見た方もいらっしゃると思いますが、今でも通用するものですからまあ見てください。
村井敦志:高齢者のリハ、病院設備35,1993.を一部改変加筆
日本人の平均的日常生活動作(ADL)能力が年齢を重ねるに従ってどのように変化していくかをグラフで現したものです。y軸が日常生活能力、x軸が年齢です。まず黒い線を見てください。ADL能力は30歳をちょっと過ぎると頂点に達しその後は下降線をたどり(減衰)、50才を超えると減衰の速度が一挙に速まります。70才代になると減衰は一休みするようにx軸とほぼ平行状態になり(スライドの○で囲んだ部分)、80才代でx軸と交わってゼロ(死)になります。著者によると○で囲んだ平行線状に見えるところは寝たきり状態を現わしているんだそうです。そこで国はまずはこの○で囲んだ状態を無くそう、すなわちスライドの白線で示した状態(寝たきりをなくす)に持っていこうという目標をたて、そのための対策、つまり寝たきりゼロ作戦と称する対策が前世紀末から盛んに展開されつつあります。と同時並行的に、世界に冠たる超高齢化社会を認ずる国策としては、健康寿命を目指すべきとして(スライドの赤線部分)いろいろな施策が講じられつつあります。となると、人間、特に老人の欲として、スライドの緑線で示したように、来世に旅発つ寸前まで青年期のADL能力を維持し人生を謳歌しながらストンと逝きたい(場内笑い)。神仙思想じゃないけれどそんな不老長寿社会の実現を夢見るものです。
ま、それはともかくとして、健康寿命・生涯現役社会を旗印とした超高齢者社会を築くためには、いかに専門分化した現代医療の細胞大オーダーメイド医療をもってしても、全人的にケアが行き届くわけにはいかず、カバーする領域に凹凸が生じ分化が進めば進むほどその凹凸が目立ってくるのではないかと予想され危惧されます。
そこで、その凹凸を埋めならし、危惧を解消するためにはどうすればよいか。そこに“もう一つの医療”である等身大のオーダーメイド医療の存在が必然的に要求されてくるのです。いうなれば、細胞大オーダーメイド医療と等身大のオーダーメイド医療とががっちり手を組んだスクラム体制、その体制が超高齢者社会を築くための医療の姿であり、即21世紀の医療の在り方と思うのですが、いかがでしょう。
くどいようですが“もう一つの医療”のベクトルについて、現代医療との対比を通して言を重ねます。
講演録3図2
健康と病気の概念を模式図にしてみますと、西洋(現代)医学は、正常検査値(今は基準値という)というラインを設け、そこから上の部分、つまり異常値が見つからない状態を健康状態、下の部分、異常値がある状態を病的状態(病気)と捉えます。検査基準値のラインによってポジティブ(健康)とネガティブ(病気)に区別する完全な二分法、対極的パラダイムです。これに対するに伝統(鍼灸)医学は,基準値というラインはなく健康も病気も全生命現象一体として捉えます。これが伝統医学―“もう一つの医療”―と現代医学との健康・病気概念の相違点を示す図式となります。両者に共通な生命現象に関するラインといえば生死を分けるライン ―デッドライン― がありますが、私はこれを気のラインと呼んでいます。すなわち気のラインから上の部分は、生きているという現存在であってすべてポジティブ(全生命現象)なわけです。ですから病気も(肉体を伴った気が病む)生きているという現存在から見ればポジティブな現象なのです。死んだら病気にはかかりませんものね。
では全生命現象の中身をどう捉えればよいかということになりますが、観念上(考え方を整理する便宜上)それぞれの状態を“相(phase)”と捉える、つまり病気の相、元気の相、その二者をつなげる未病の相というようにイメージすると、伝統医学が唱える全生命現象の連続的・相互関連作用的パラダイムという考え方が理解しやすいのではなかろうかと考え、前世紀末からしきりにこの考え方を提唱してきたのです。が、目立った異論者も現れないかわりに、同調者も現れません。(場内多少の笑い)
でもこうやって図に現して整理していきますと、治療のベクトル(スライドで示す矢印)が現代医療は一方向的に見えるのに対し、”もう一つの医療“は双方向性(元気の相を増やし未病の相を減らすことによって病気の相を縮めていく)に見えることから、現代医療はもっぱらネガティブを排除するキュアの医療、一方“もう一つの医療”(鍼灸医療)は気の平衡を整え自然治癒力を援助するケアの医療であることが、はっきり掴めると思うのですが、いかがでしょうか。独断ですが“もう一つの医療”の概念はここですっきり掴んでいただけたと確信します。
ベクトルに関しての考察をもう少し深めてみます。
もう一度スライドを見てください。病的状態に対するベクトルは現代医学は下向きであり、これを否定の形とみれば、対する伝統医学はある点を起点として上下に広がる形、否定に対し肯定の形と見えませんか。この形の相違、いうなれば否定の医学と肯定の医学とも表現できる事情を臨床哲学的に考察してみます。
仏典(倶舎論)に対治たいちという言葉があります。出家修行に差し障るすべての煩悩を断ち切る手段の総称です。この対治の対語として同治どうちという逆の概念を現す言葉があります。対治は否定的な医療、同治は肯定的な医療に置き換えられます。
講演録3図3
古い話ですが日本医事新報(第3066~3068号 昭和58年)に、駒沢勝一という多分小児科の先生だったと記憶していますが、その先生が書かれたエッセイが載っていたのですがその一部を紹介します。読みますね。
『前に中川米造氏と加藤弁三郎氏との対談を読んだことがある。その中で加藤氏は、同治と対治について説明されていた。これらは仏教の言葉で、例えば発熱に対して氷で冷やして熱を下げるのは対治で、暖かくして汗を十分にかかして熱を下げるのが同治だと説明されていた。あるいは、悲しんでいる人に、悲しんでも仕方がない、元気を出せよと言って、悲しみから立ちなおすのは対治で、一緒に涙を流すことによって心の重荷を降ろせてやるのが同治だと。』
中川米造先生は医療倫理・哲学の権威、加藤弁三郎氏は協和醱酵工業(現・協和発酵キリン)の会長で仏教信奉者でした。対治と同治との対比を見事に説明されていますね。で、最近読んだ池田晶子さん、40才半ばにして癌で倒れられた稀有な女性の哲学者ですが、この方が書かれた「41歳からの哲学」の中でこんな言葉をみつけました。
『この世で生きるということは、身体をもって生きるということである。身体は自然だから、変化する、壊れる、やがてなくなる。健康とはそういう自然の事柄によりそうというか、いやむしろ離れてみるというか、流れに逆らわず舵をとるような構えのことであろう。』
このセンテンスの中の『健康とは、自然の事柄によりそう、流れに逆らわず舵をとるような構えのことであろう』こそ、まさに同治の本質を言い当てている文言ではないかと思いました。これは転じて養生医療の基本的な定義にも通ずるものであるとも思いました。そして流れに逆らわず舵をとってまっすぐな航路にしようとする働きに積極的という形容を冠してもいいのではないかと考えたのです。積極的養生医療という言葉の奥にはここまでにお話ししたもろもろの想いが詰まっていることをご理解ください。
講演録3図4
それではここまでお話ししたことを踏まえて、“もう一つの医療”は医療界の中でどのような位置づけにあるかについて考えます。
まずは医療界を大衆的視点で俯瞰してみましょう。身近なプライマリケアから始まって、大学・大病院を基軸として専門分化した多数の診療各科があり、医学・医療研究の発展の成果として先端医療、再生医療が加わり、人口の高齢化・慢性難治疾患の増加に伴って緩和医療が独立し、領域はどんどん広がっていくようです。でも従来から、予防医学とプライマリケアとの間には隙間があり、その隙間(領域)を埋める、いわば予防医療とはっきり言えるものはありませんでした。ところがこの領域に名称がつきました。未病です。領域に名称がついたのですから未病に対する医療の存在は必然性がありますね。
元京都大学の総長で、今は先端医療復興財団理事長の井村裕夫いむら ひろお先生、今年開かれた第29回日本医学会総会会頭を務められた内科学の権威ですが、その先生の編になる「医と人間」という書籍の中でも未病の医療という言葉を使っていらっしゃる。その存在の必然性を認めておられます。しかし先生のおっしゃる未病の医療の中身は、遺伝子研究の進歩により一定の確度で予測して発症する前に介入する個別的な対策、やはり細胞大のオーダーメイド予防医療とでも言えるものなのです。その中身からすると未病の医療という名前はしっくりこなかったのでしょうね。3年ほど前にpreemptive medicine (preemptive attackは先制攻撃)という言葉に出会ってからは、それを日本語に直して“先制医療”という言葉を使い始めたということです。そして第29回日本医学会総会で採択された“健康社会宣言2015関西”の第一項目;治療から予防へのパラダイム・シフトの宣言文として、
『少子高齢社会にあっては,病気の予防がなによりも重要である。そのために胎生期から死に至るまでの終生にわたるヘルスケアを推進する。とくに加齢に伴う慢性疾患(いわゆる生活習慣病を含む)においては,臨床症状などの異常が現れる前に予測し,発症前に介入する先制医療を目指すべきである。すなわち,治療から予防へのパラダイム・シフトを行っていく。それとともに高齢者が寝たきりにならないように,筋力の維持,リハビリテーションなどの対策を進める』
と謳われ、先制医療はすでに公用語の地位を獲得しているようです。
でも、先制医療の概念は、遺伝子研究の進歩に依存し、遺伝情報に基づき一定の確度で予測して発症する前に介入する対策であって、未病の医療(治未病医療)を即、先制医療に置き換えるわけにはいきません。なぜなら、終生にわたって混在する多くの未病(前に説明した“未病の相”のことです)に対して適応する医療とは言えないからです。すなわち先制医療は治未病医療の一部と考えるべきと思います。ではその残部を埋めるものは何か、その何かは“もう一つの医療”であり、“もう一つの医療”が医療界に占める座はここにある、と私は考えます。そして“もう一つの医療”の代表格は鍼灸医療であることも。
講演録3図5
先制医療と治未病医療(鍼灸医療)とはジャンルが違います。ジャンルが違うものの連携は、異なるジャンルの特色が加算され1+1=2の成果はもちろん期待でますが、2以上の成果を上げようと思えば双方に連携を超えた協働の意志の共有とその実践が望まれます。その意志を醸成するには双方の衆智・理解が必要でしょう。まずは伝統医学側の現代医学に関する知識の深化と拡大、その方向性に沿った卒前教育並びに卒後研修の充実が急務です。
時代は変わり、鍼灸臨床は緩和医療の領域にも深いかかわりを持つようになりました。死に向き合う患者さんに対する身心両面に対する臨床家としての対応、特に他者の死生観が理解できるための自らの死生観の醸成は、必須の心得となってきたことも忘れてはなりません。
その4へ続く