<出典情報>
初出百合会びゃくごうかい 会報 第9号」(2000年9月9日発行)

その2.シンパシーとコンパション

●治療家は役者たれ

石川:先生が常々おっしゃっています「治療家は診療の場における役者たれ」という主張も、先生が昔役者志望であったことを強く想起させ、先生の来し方の人生と深い関連性があることを覚えます。
丹澤:私が「治療家は診療の場における役者たれ」と言っているのは、治療家も見られている存在であることを主張したいのです。患者さんも自分のあらゆる知識や経験を総動員して、自分のかかる治療家を「医療人としてほんとうに大丈夫」であるかの判断をしようとしているのです。そのためにも、治療家は話の内容はもちろんのこと、しぐさや態度あるいは服装まで、自分自身の身なりを気にかけて頂きたいと思うのです。
石川:ええ、そう言ったお話もすごく大切なのですが、先生のご趣味やお考えを聞くたびに、また今日のように先生の今までの人生を振り返ったときにそこから得られる事実と、僕が先生に教えを受けてから耳にする医療に関する言葉の端々とが、関連性をもって結びつき、生まれかえってくるのです。冒頭失礼にも申し上げたフィールドワークの研究対象と申し上げたのはこのような意味を込めてであります。
丹澤:うーん、自分自身は自分を他人ほど客観的に見られないものですから、石川先生のおっしゃることもわからないわけではありません。
石川:と申し上げるのは、意識するか意識しないかは別として、人は人生の経験の中で思考が形成されて行き、日常の何気ない行動や発言にも繋がっていくわけですが、それが物事を深く考えられる人物ほど、すべてが大きな関連性の中で一生の物語が進んでいくのだと思うのです。先生の人生の歩みを聞いていると、今までのご経験のすべてが網の目のように関連しあって、医療や鍼灸界に関してのご発言になっているのだということを、感ぜずにはおられません。
丹澤:確かに、治療家は役者たれという言葉自体には、「治療の場」という「劇をする場」を想定している発言ということになりますけれど。
石川:役が違えれば、治療者も患者になるわけです。オスキー(OSCE:Objective Structured Clinical Examination、客観的臨床能力試験)でも役を変えることがありますが、実際の日常でもあり得る訳です。

●臨床のまなざし

丹澤:人生においても役を取り替える、役が取り変わったならば、自分はそれにどう感じてどう対処するだろうかといったイマジネーションは人間性を磨くのに必要な感性の一つでしょう。患者さんを相手にしたときに、相手の身になって、自分がこの病気になったときのことをイメージして、おもんばかれるかどうかということです。それが患者さんに対する共感を土台にした思いやりであると考えています。
石川:役者の資質である想像力や対象と融合する感性があって初めて、共感が形成されるものだと思うのです。福祉にしろ、医療にしろ、また教育の場面にしろ、生身の人間を扱う現場の担当者が想像力を欠如していれば良い仕事はできません。
丹澤:臨床のまなざしは共感から芽生えるのですが、またそれはイマジネーションだけでもありません。身をもって病者を支えることによってはじめて感得できるものです。
石川:しかし感性が先に無いと、病者やそれを取りまく現実に身をもって対処することにより自分自身が潰されてしまう危険性もあります。何年か前の東海大学病院の若手医師による安楽死事件も現実の経験の重さに混乱したのだと思います。むしろ、真面目な青年だったのではないかとも思いますが。
丹澤:フィリップ・タマルティ教授という人が「臨床家とは、人間が病気から受ける衝撃全体を最も効果的に取り除くという目的を持って、病者をマネージする人である。」と述べています。病者が受ける衝撃をやわらげていかなければならない医師が、自分自身が大きな衝撃を浴びてしまった例なのかも知れません。
石川:どうすれば衝撃を受けないで共感に根ざした患者マネジメントが出来るようになるとお考えでしょうか?

●智慧と感性

丹澤:たいへん深い本質的な問題だと思います。まず人には知恵というものがあります。内的思索によって物事を普遍的、本質的に識別していく学問として哲学がありますが、フィロソフィー(philosophy)の原義は「知恵を愛する」という意味です。ご存知のように知恵とは知識と違い、学識経験や単なる学歴によって保証されるばかりのものではないのです。そのあたりは仏教ではたいへん面白く解説しています。知恵はこっちの方の字で「智慧」と書き、生得的に備わっている智慧、他人から教えられて得られる智慧、内的思索によって得られる智慧、そして修行実践の中で得られる智慧の四つに分けています。 最初の生得的に備わっている智慧は因縁生起でしょうが、他の三つは日々の学習であったり生活実践であるわけです。特に最後の修行実践の中で得られる智慧とは、我々臨床家にとっては病者に身をもって対処することによって得られる智慧のことでもありましょう。まず智慧があるということです。その智慧を日々感性によって磨いていくと同時に、感性も智慧によって磨かれていくわけです。
石川:智慧と感性が臨床家としての出発点とお考えなのですね。
丹澤:聖路加病院の名誉院長である日野原重明先生は臨床能力に五つの項目を挙げていらっしゃるがその筆頭に感性を挙げています。大いに賛同するところですが、私はその感性の前提に人間としての智慧があるのではないかと考えています。そして臨床家としては何はともあれ「感性があるかないか」の一言が臨床能力のあるなしを表し得るものだと思っています。
石川:仏教では智慧は、悟りを得るための智慧であり「般若」と音訳されていますが、般若を体得するための方法として「方便」が必要とされます。また密教では特にこの二つを陰陽の組合せ概念にして、ブッダなる者はこの二つを合わせ持つとしております。衆生の実践レベルとしては智慧があり、感性があり、そして身をもって体得するための方法として方便が、我々の方便としてはまさに治療行為となるわけですが。

●思想を持った臨床

丹澤:仏教的な話しではなくとも、それはたいへん基本的な組合せでしてね。西洋科学思考でも同じです。智慧を愛する哲学があって、あるいは思想があって、そして技術がある。「科学」と「技術」というのも実はそのような組み合わせなのですね。そして、「科学技術」と一緒にしたときに、また「思想・哲学」という組み合わせがあるのです。ところがリハビリテーションでもそうですが、得てして、リハビリという技術は導入されても、その背景である思想、哲学が置き忘れられるのですなあ。特に医療は単なる技術だけではないのです。
石川:先生から教わった今のお考えは金子朝彦さんとの対談の時にも使わせて頂きました。(「中医学の育て方」、TAO鍼灸療法、第3巻第2号、源草社、通巻10号)そして、そこでも中山茂教授の意見を述べたのですが、横浜での第48回全日本鍼灸学会で演者としてお呼びした科学史家の中山教授も著書の中で(『日本人の科学観』創元新書、1977)、輸入文化は本質的なものをいじれない、末梢的なものしかいじれないから、微にいり細に入りいじりまくると述べています。本質には思想や哲学があるから、表面上の技術だけ真似しても、そこまで踏み込まないと独創的なものが創れないということだと思うのです。
丹澤:そういうことです。そして更に一歩進んで、私は思想を持った医療というものが大事であると考えています。それは今までにお話ししてきた智慧であり、感性でもあるわけです。つまり、想像力であり、思いやりであり、感受性であり、慈悲であり、共感であり、人間性に対する深い洞察であると思うのですよ。それが論理的な思考、すなわち分析と統合を合わせもった人の能力ですが、それと先に述べた智慧や感性とがひとつになった思想をもつべきだと主張しています。
石川:自己の臨床に思想を持てと。
丹澤:ええ、単に腰痛を取るとか、五十肩を治してやったということではないはずなのです。今日只今の針灸診療がその人にどのような影響をおよぼすか、その人のライフステージにどう関与しているのか、その人のQOLの向上にどれだけ貢献できるのか、社会的存在としての病者を如何にマネジメントするかを思慮した診療でなければならないはずです。加えて当然の事ながら基本的な身体診察能力と高い治療技術があれば、患者の苦悩を軽減することができるのです。このことが先ほど述べました「臨床家とは人間が病気から受ける衝撃全体を最も効果的に取り除くという目的を持って病者をマネージする人」である、という意味なのです。
石川:東海大学の医師も智慧や感性を、そして自己の臨床にもう少し確固たる思想を持っていれば安楽死の是非は別にしても、結果は違っていたものになっていたかもしれません。実は人ごとではなく、僕も開業してほどなく中年女性の筋萎縮性側索硬化症の患者さんが来院したのですが、まず夫が来て病名を頚椎症にしてくれと懇願されました。徐々に症状が進行していくのですが、患者さんは不安で盛んに僕に質問するのですが、見当違いの答えを出さなくてはいけません。毎回、毎回嘘をつくことと、現実に悪化していく患者さんを目の当たりにして、「ああ何てつらい職業を選んでしまったのだろう」と宮沢賢治の童話に出てくる夜鷹のように毎日悩みました。ある日、ストーブに手をかざしながら苦悩していると吐き気がありまして、あれ?どうしたんだろうと、気がつかないのですね。その後何日かして下血になりまして、ようやく十二指腸潰瘍だとわかりました。その頃に、僕も自己の臨床に確固たる思想があったならば十二指腸潰瘍にはならなかったであろうと、今から振り返ればそう思えます。

●シンパシーか、コンパションか

丹澤:東海大学の医師もその結果はさておいて、石川先生も良い治療家であるほうなのだと思います。そんなことに何も感受性がなく、考えもしない治療家がたくさんいるのですから。悩む必要性はあるわけです。人生の不合理や悲哀を、特に患者さんを通じて感じることから、真の医療人としてのスタートがあるのではないでしょうか。人間の悲哀を特に病気に対する苦しみと悲しみにシンフォニー(symphony:共鳴)してシンパシー(sympathy:共感)が生まれるのです。そして、他者の危急に対して救おうとする「情」がほとばしるそれがコンパション(compassion:悲哀を共にする)であります。医療人の「共感」はコンパションであるべきだと考えています。
石川:パションというとどうしてもルオーの作品が思い浮かびますが。
丹澤:そのとおりでしょう。パションとは受難の意味ですから。深い深い悲しみであり、それはキリストが十字架に磔(はりつけ)になった悲哀です。com-とは「共に」の意ですから、共に悲哀を味わう、共に悲哀を経験するという意味なのですね。
石川:いつぞや先生に、コンパションではなくシンパシーではないかと質問したのですが、先生は少しお考えになった後に「やはりコンパションなんだなあ」と答えておられました。今日は、この答えを是非はっきりさせたくて、この本をもってきたのですが、養老孟司氏と森岡正博氏の対談の中で(『生命・科学・未来』ジャストシステム、1995)森岡正博氏はこう言っているのですよ。「目の前の末期患者は死んでいくけど、ケアしている自分は生き残ってしまう。末期の場合、ケアされる患者とケアする人のあいだには、すごく大きい深淵が横たわっている。死ぬのはあなたであって、ケアしている私ではない。」そして「看護では、共感的理解ということをいうわけです。目の前の患者さんに共感的態度で接することによって、こころと身体のケアが達成しやすくなる。しかし、死が決まっている末期患者に対して、ほんとうに共感的理解ができるのかという問題があるのです。そんな教科書的な答えが通用するのか。ほんとうに共感的理解に徹すれば、『私もあなたと一緒に死んであげます』ということになってしまわないか。それでは心中であって、ケアとはいわないだろう。でも、そこまで行かない共感なんて、なんかウソっぽいでしょう?この問題は、友人たちと『「ささえあい」の人間学』でしつこく議論して考えてみましたが、いまだによくわかっていません。」と述べています。僕もその意味ではシンパシーであって、コンパションではないのではないか、かりにコンパションでは自分の身体がもたないのではないかというように考えていました。
丹澤:・・・・・・・・。(しばし沈黙)それはねえ、石川先生、一つには森岡氏は臨床現場にいないのですよ。彼の言おうとすることは分かります。しかし、彼は病者に身をもって対処するということを経験していないのですよ。だから、ケアが一方的なものだと思っている。ケアする方もケアされることがあるということが、両方向性でもあることが、彼には理解されていない。もちろん、私の言っていることは形式的なケアではなく、限りなく病者との共感ができたケアの場合を指していますがね。良いケアができたと思ったときは双方向性が成りたっている時なのですよ。そして、病者と治療者が共有する時間の流れがあり、時がケアそのものを育むことも森岡氏が分からない大事な要素なのですな。彼の言うケアは、言うなれば実験室的なケアでね、流れを断ち切って是か非かを論じているきらいがあるな。ところで、石川先生は末期患者さんやかなり重度な身障者の方々を診ていますか?
石川:ええ、いま3人でしょうか。末期がんが2人で、もう一人は低酸素脳症で痙性麻痺になった5歳の男の子です。
丹澤:で、今の問題に関連してはどういう風に対処しています?
石川:ただひたすらに患者さんに誠実であろうと務めています。
丹澤:そうでしょう。それが現場にいる人の普通の感覚ですよ。そういった感性を失ってはいけないと主張しているのです。そしてその誠実さが、ケアする側とケアされる患者とのあいだに存在している深淵に染みいることを我々は願っているのですよ。染みいることができたら、彼岸と此岸の別れの時にお互いに感謝の念が生じるのではないでしょうか。
石川:ええ、確かにそう思います。
丹澤:もう一つはプロの意識かな。救急医療で患者さんを診るときには、医者も一緒に家族と同様にあわてふためいては当然だめなわけでね。そんな医者にかかったら患者さんが不幸ですよ。(笑)プロとして冷静に的確に処置するように訓練させられているのです。それと同じように、最初から一緒に心中してくれるような医療者を選んでいたら、これはたまったもんではない、危なかしくってしょうがない。(笑)再三再四述べますが、我々はプロとしてタマルティ教授が言う「人間が病気から受ける衝撃全体を最も効果的に取り除くという目的を持つ」ことを忘れてはいけないのです。
石川:専門家としての目的があるということですね。
丹澤:さっき、ルオーの話がでましたが、彼は今世紀最高の宗教画家と言われピカソと並び称されている大家ですが、キリストや道化や娼婦を描き人間の悲哀を表現している。ところが後期の作品ではしだいに救いと恩寵の主題に移るのですね。これは私が医師として勝手に想像しているのですが、彼は描くことにより、あるいは描ききって、キリスト者として自らを癒していったのではないでしょうか。それは芸術として私たちをもまた癒しているわけです。これも森岡氏の設問に対しての返答のつもりですが、答えになっているでしょうか?

●医のアート

石川:はい、よく分かります。私たちの立場もまたそうであるわけですね。医もアート(art)ということですね。ルオーは私たちの立場でもあり、患者の立場である。また私たちも、治療者の立場から患者の立場に役を変えることがある、この人生の舞台では。役も固定しているものはないし、そもそも癒す側と癒される側と区別することができないのですね。共通の場をつくり共有することになる。
丹澤:古代ギリシャではさまざまなアートがあり、医もアートであったのですが、現代ではアートの部分が浅薄なものになってしまった。アートの部分とサイエンスの部分と両方が必要なのです。ちなみに医療面接とはこの両方を会得することなのですよ。
石川:アートは患者さんとの信頼関係を築く部分で、サイエンスの部分は鑑別診断や論理思考の部分ですね。
丹澤:石川先生は共通の場をつくり共有するとおっしゃったけれど、それが共感なのです。我々の言葉でいうとそれが「気」であると思うのです。
石川:ええ、そう思います。共感の場をつくり得た二人は「気に入り」、「気が合う」のですから、気の交流が始まります。そもそも他者と、路傍の石とでも、気の交流があるべきなのですから、それをより意識的に行うことなのでしょう。互いに「気を引いたり」して、早く互いの「気が置ける」関係になるように努力することです。
丹澤:「気まずい」関係になるようではいけません。(笑)またより意識的に行う、一歩踏み込む行動となるのが、実はシンパシー(sympathy:共感)からコンパション(compassion:悲哀を共にする)への移行なのです。
石川:よくわかりました。前からパション(passion)にどうして受難と情熱の意味があるのか疑問に思ったものです。漢語の「情」には辞書を引くと「ほんとうの気持ち、本心」と言った意味があるのですね。日本語の「なさけ」も辞書を引くと「思いやり」と出てきます。つまり洋の東西ほぼ同じ意味であったのですね。他者の危急に対して救おうとする「情」が、「ほんとうの気持ち」や「本心」や「思いやり」がほとばしる、それがコンパションであると。先生がおっしゃった意味が今日よく分かりました。  日野原重明先生も感性が医療人としての基本だとおっしゃっているのは、やはり医者にならなければ、音楽家になるおつもりだった御方だからだと思うのです。丹澤先生も役者であったり、常磐津のお名取りであったり、彫塑をおやりになったりされるから、アートからのご発言なのですね。人生の厚みが治療家としての厚みを増すことになるようですから、さまざまなアートが必要であり、またリベラル・アーツ(liberal arts:教養)も良き治療家となるために必要なことなのでしょう。

「その3:感性と論理をめぐって」へ続く