<出典情報>
初出 「たんざわ会 十周年記念式」(2000年)における講演の記録
※「たんざわ会」とは、社会福祉法人神奈川県総合リハビリテーション事業団七沢老人リハビリテーション病院に、丹澤先生が勤務していた時、先生が受け持っていた同病院七病棟の入院患者さんの有志によって、1981年(昭和56年)に結成された患者友の会である。1990年(平成2年)、任意障害者団体として横浜市に登録された。
再掲 丹澤章八著、宮川浩也編『鍼灸の風景 ~丹澤章八先生 講演・随筆集~』(丹塾、2014年)

生きることの易しさと難しさ

神将
丹澤章八
神将
1976年
彫塑
「十年一昔」と言いますが、これから先の十年を考えますとはるか先のように感じますが、過ぎ去った月日はまさに「光陰矢の如し」と言われるとおり、あっと言う間に通りすぎ、十年前のことがまるで昨日のように思われるのは私ばかりではないと思います。
丹沢会という会が、七沢病院の退院患者さん方の発意で設立されたのは昭和五十六年(一九八一)です。ですから、会の実際の年齢は今年で満十七歳ということになるのですが、この会が障害者の任意団体として正式に行政に登録認知されてから今年は十年目に当たるというので、早くから記念式の開催を企画され、役員の方々が打ち合わせを重ね、準備よろしく今日を迎えられたと伺っております。ともかく、世間(行政)の戸籍に登録されてから十周年を迎えたことを心からお祝いを申し上げますとともに、会を支え、もり立ててこられた会員の皆さまの、この会に注ぐ愛とご努力に、心から敬意を捧げるものです。
その間、先程は、矢のように過ぎ去ったと申しましたものの、三名の会員の方(岡崎さん、真山さん、加藤さん)が昇天されるという、この時ばかりは時計の針を戻したくなるような悲しい出来事もございました。この席をお借りして改めてご冥福をお祈りしたいと思います。
さて、本日のお話はなんとなく難しく聞こえる題になってしまいました。できれば私の方が聞き手にまわって聞きたいような演題です。新堀会長に促されて咄嵯にこの演題を申し上げてから、さてどんなお話をすればよかろうかとよりより考えておりましたところ、たまたま目下『たんざわ会十周年記念誌』の発刊の仕事を仰せ付かって編集を進めている最中なのですが、編集作業のかたわら、過去十七年の間に丹沢会会報に寄稿した私のエッセイを読み返す機会がありまして、あらためてその内容を読んでみますと、その殆どが今日お示しした演題に関連したものであったことを発見しました。自分でも不思議な感じがするのですが、考えてみますと、筆を執るたびに、生きる勇気と生きている意義とを、私なりに一心に皆さんに語りかけたい心がそうさせたと思っています。
ですから今日は、会報に載せていただいた私のエッセイの軌跡を辿ることで、話の筋道を立たせてさせていただくことをお許し願っておきます。
さて、まず、お話のでだし(序章)は昭和二十六年に発刊された会報第一集のこんな文章で始まります。短い文章ですので読ませていただきます。それは「秋の色」という題のエッセイでした。
「寒気が足早に近づいたせいか、今年の七沢の山々は例年になく色づいて、透明な秋の空気のなかで、落葉樹の一本一本がそのあでやかな衣装を競い合っています。
道元禅師の書かれた『正法眼蔵』に有時うじという巻があります。
時の流れを構成する要素としての一瞬の持つ意義とその尊さを有時という言葉をもって説かれたもので、「いままさにその時がある」とでも解釈するのでしょうか。
その年の秋の色、それは大自然が示す精一杯の有時の姿に他なりません。
人は大自然の中で、自然とともに生かされていることを自覚したとき、始めて有時の尊さを知るものです。
いまこの時、あるがままに、しかも力一杯、人間を尽くす。秋の色は私にこんなことを問い掛けてくれる大切な色なのです。」
実は、私は三十一歳から四十四歳までの十三年間、父の命令で医者を休業して実業界に身を置いていました。その間の出来事ですが、どうしても許せないある背信行為に出会い、精神的に大変な危機に見舞われたことがあります。救いを求める気持ちで禅の門を叩き、五年間参禅しました。この時、座禅の傍ら『正法眼蔵』の講義を聞き、その中の「有時」の巻を読んで、この世の中の一瞬が持つ尊さの一端を知ることができました。
平生の私どもの生き様は、一瞬一瞬の生き様の連続のように見えます。がしかし、一瞬は過去にも未来にも影響されない、前と後ろとが裁断されたただ一瞬そのものである。ですからその一瞬をただひたすらに生きることが大切であることを説かれたものと思います。
難しく考えれば考えるほど、滅法難しくなるのでしょうが、私はこう考えます。
それは、我々普通人は、ただ、いま、ここにいるということに限りない感謝の気持ちを持つことが一瞬を精一杯生きることであり、真にその気持ちが芽生えれば一瞬の中に永遠の命を観ることができるのだ、ということではないかと思うのです。
ですけれども、聖職者ではない我々普通人は、一瞬にこだわって感謝を意識しつづけていては、肩がこってしまいます。我々は何かの折りに、ふっと自分自身の存在に気がつく時、ふっと生きていることの不思議さを感ずる時、振り返って、あの瞬間は思い煩いのない無垢な自分の姿があったことに気が付けば、それが一瞬の命の尊さを知ることではないかと思うのです。
私にとっての何かの折りとは、四季こもごもに美しさを織りなす自然であります。
ところで、七沢に入院された経験をお持ちの皆さんにお尋ねします。入院される時に車の窓から見えた七沢の景色は、どんな風に見えたでしょうか。見る余裕がなかった方は別として、見えた方は、それはあたかも映画館にいて、スクリーンの上を足早に過ぎていく景色、ごくありきたりの景色、と感じた方が大部分であったのではないかと思います。では、退院される時はどうだったでしょう。多分うれしさと、明日からの自立生活に対する不安とが心を占拠し、辺りの景色に気を取られる余裕はなかったのではないでしょうか。
丹沢会の発会当初は、私がまだ七沢病院に在職していたこともあって、会合は主に病院で開かれていました。会を重ねるごとに先輩会員の方々の物腰には自信が見え始め、後輩の会員を激励する光景が見られるようになりました。
その頃です。だれ言うとなく
「会は秋がいい、七沢の秋はきれいだからね~」
その時、きっと会員それぞれの方が、七沢の秋の美しい自然に自分の姿を重ね合わせた光景をごく自然に心の中に描かれていたことと思います。それは命の美しさと尊さとを、無意識のうちに感じ取った証といえます。どうしてかといいますと、自分を自然の中において、自然の色に溶け込ますことができたということは、とりもなおさず自然は自分の外にあるものではなく、自然と自分とは一体であること、自然と通じあっていること、自然の一員であることを感じたことで、理屈抜きで自然とともに生かされていることを実感していることにほかならないからです。そしてその時、人間が本物の人間になるのです。
第一集にはまずそのメッセージを書きました。
そして丹沢会の会合は秋に開かれることが多くなりました。
丹沢会には思い出深いことが沢山ありますがその一つ。忘れかけていた命の尊さを呼び覚まさせてくれたことがあります。そのことを会報十五号に「新会長からの電話」という題のエッセイとして書きました。
平成八年の研修旅行は修禅寺でした。平成二年の研修旅行も修禅寺でした。平成二年は新しい丹沢会が発会した年です。そしてこの年の研修旅行は、私にとっては、これまで持病の治療のための手術を七回受けていますが、その第一回目の手術の直前のことでした。
内容は、修禅寺の駅前のおそば屋さんでの出来事、駅から狩野荘に向かう道すがらの風景、講演を終えて迎えのタクシーが来るまでロビーで向かい合って座っていた新堀さんと井上さんの表情、その一つ一つの情景を追想したものです。
そしてこのエッセイはこんな言葉で締めくくっています。
「思うとこの日の光景の一つ一つは、計りしれぬ力の持ち主から、私が一つ一つの情景の中に立たされて、その情景が持つ意味をどのように解釈するか、私の人間としての感性をそっと試されていたような気がしてなりません。六年後に気付いた答えは、それは生きることの勇気と感謝とを教えてくれる、一幅の絵巻物だったのではなかろうかということです。その時に答えられなかった未熟さを恥ずかしいと思いながらも、でも今は気が付いたという安堵があります。考えてみればこのような情景は日々の連続の中にいくらでもあることです。人は人を助け、導きながら共に生かされている光景として。新会長からの電話は、忘れがちな生きる尊さを思いださせてくれるきっかけを作ってくれました。感謝しています。」
ところで、生きるということをとことん突き詰めて考えますと、漠然とですがそれは並大抵の努力ではないことを感じます。
平成八年の研修旅行の時に、「いい加減に生きる」というお話をしました。五木寛之氏の『こころ・と・からだ』というエッセイ集の中にある“いい加減”という話を題材にしたものでした。氏は最近『大河の一滴』というエッセイ集を出されて、たちまちベストセラーになっています。その中に大変興味深く、氏がびっくりしたというお話があります。かい摘んでご紹介しましょう。それはアメリカの有名な生物学者の方がやったある実験の話です。
三十センチ四方の木箱に砂を入れて一本のライ麦を植えます。水をやりながら数ヶ月育てますと、なよなよとした大変貧弱ではあるけれども苗は育ちます。そこで箱を壊してライ麦の苗の根っ子の長さを丹念に測ります。根毛といわれる目に見えない根は顕微鏡で細かく調べ、計測した根の長さを全部足していきます。そうして計算されて出た根の長さの総延長は、なんと一万一千二百キロメートルに達したというのです。五木氏はその数字を見て最初は印刷の誤り(誤植)と思ったそうです。その数字はシベリヤ鉄道の一・五倍位になるそうですから。そして、「一本の麦が数ヶ月、自分の命をかろうじてささえる。そのためびっしりと木箱の砂の中に一万一千二百キロメートルの根を細かく張りめぐらし、そこから日々、水とかカリ分とか窒素とかリン酸その他の養分を休みなく努力して吸いあげながら、それによってようやく一本の貧弱なライ麦の苗がそこに命をながらえる。命を支えるというのは、じつにそのような大変な営みなのです」と書いています。そして、「私たちも同じように生きていくために、さまざまなものを必要とする」。
太陽も、空気も、水も熱も食物もみんな必要だが、人間は精神的存在であるから愛も友情も、家族のお互いの連帯感も必要だと言います。
「生きるために私たちが、目に見えないところで、どれほどの大きな努力にささえられているか。自分の命がどれほどがんばって自分を支えているか」。しかし人間には決められた寿命がある。つまり「先は見えているにもかかわらず、ぼくたちはそれに絶望せずに生きてゆくそのことを考えると、生きている、というだけでも、どれほど大切な大きなことを人間はやり遂げているか、と考えざるを得ない」といっています。さらに、「人間は一生、なにもせずに、ぼんやり生きただけでも、ぼんやり生きたと見えるだけでもじつは大変な闘いをしながら生き続けてきたのだ」、と五木氏は考えます。
そして、この世に生を受けたものはだれでも、ある種の役割があって、存在しているのではないか、ともいっています。
私はこのある種の役割というところに大いにこだわりたいのです。
ライ麦の話でもわかるように、命を支えるための根っ子は大切です。人間はその根っ子が絡み合う人と人とのつながりが特に大切です。そしてそのつながりは、人それぞれが持っている役割があるからこそ成り立っていると思うのです。ではその役割とは何でしょうか。別に難しいことではありません。生かされているという存在そのものが、その人に与えられた役割なのです。といわれてもピンとこないかもしれません。
でも、皆さん自身のことを考えて下されば、ことは簡単です。現に皆さんは障害にめげず、むしろ障害を人生の糧として「なにくそっ!」という根性でたくましく生き抜いておられる、そのことこそが立派に役割を果たしている何よりの証拠なのです。この役割については皆さんはあまり意識していないかもしれません。しかし皆さんが果たされている役割は、皆さんが想像されるよりはるかに大きいものがあります。その役割の一端は人と人とのつながりの中に見られます。
皆さんは七沢病院やその他の病院でリハビリテーションを受けられ、日常生活の自立を獲得されました。社会復帰には医師や看護婦、PT、OT、ST、ケースワーカーなどの皆の力の結集もあったかもしれませんが、しかし回復に導いた最も大きな力は、私は病院生活における患者さん同士の支え合いであると思っています。
このことは患者さん自身は殆ど意識されていません。病人の本当の気持ち、悩みは、病人にしかわかりません。どんなに努力しても周りのリハビリテーション・スタッフに分るものではありません。残念ながら家族についても同様です。しかし悩めるものは、傍らに悩めるものがいれば語らずとも気持ちは通じ、分りあい、多くは心の中で純真にお互いの再起を願うものです。その気持ちがいわば心の力(心力)となってお互いに影響しあっている。これは無意識に行われているために殆どの人は気付いていません。でも必ずこのような現象は起こっている。その心の力を結集した空気がリハビリテーション病院にはある。私はその空気こそが皆さんの回復を扶けた最も大きな力だと思っています。そしてその空気は皆さんがそこにいたことによってこそ作られたということを知れば、皆さんの役割とは一体何なんだろうというお答えを、あえて申し上げなくても、もはや自明のことと思います。自分の腕を過信し“俺が治したんだ”と、うぬぼれるスタッフに、このことを話して釘を刺したことがあります。ところで、今の皆さんは、狭い病院ではなく、広い社会にいて、それぞれの役割を果たしていることを決して忘れないでいただきたいと思います。
先程のライ麦の話に戻りますが、三十センチ四方の箱にライ麦の苗を二本植えたら、お互いが養分をとりあうのではなく、お互いに支え合って一本しか植えなかった時の苗より二本とも太く丈夫な苗に育つことでしょうし、二本が三本になれば苗はきっと、もっともっとたくましく育つことであろうと思います。
存在が巧まずして支え合うことになるのです。
私は総ての人が、いまここに生かされている、もっと大袈裟にいうと総ての存在が今そこにある、そのことが、大きな役割そのものと思っています。
「すでに世の中にはそれぞれの区切り方に違いがあっても、見事な『二つ目の人生』を営んでいる先輩方が沢山おられます。疾病に続く障害というそのこと自体、私などには想像もできない大変不幸な出来事、その出来事を人生の大きな区切りとして『二つ目の人生』を雄々しく歩んでおられる丹沢会の面々諸氏も、私にとってはかけがえのない人生の先輩です。会合の度に、皆さんの生き方の見事さに感動を覚えると同時に生への新しい発見があります。
『二つ目の人生』の旅で、そこに行くといつもほのぼのとした暖かい風に逢える。丹沢会はいつまでもそんな集まりであることを願っています。」
私を一本のライ麦の苗に例えれば、丹沢会そのものの存在が、私という存在を支える根っ子の太い幹に相当することを、こうしてお話ししていると、つくづくと身に染みて感じます。
以上、生きることの尊さと意義とをお話しました。
さてこの辺で標題の「生きることの易しさと難しさ」のお話をしなくてはなりません。
誰しも、生きることは大変難しいことは重々承知しながらも、それでも、何とか易しく生きたいなーと願うのは人の常です。
ではどのように気持ちを整え、どのように行動したら易しく生きられるのでしょうか。
その答えを今求められれば、やはり“いい加減”に生きることですよ、というお答えになるかと思います。丹沢先生は“いい加減”が好きだなーと思われるかもしれませんが、事実“いい加減”が大好きなのです。それもチャランポランという意味も合わせてのことです。
“良い加減”に考え、“良い加減”に行動する。そして結果は“良い加減”であった。この一連の流れを導くものに、私はその人の直感があると思っています。直感というと、なにか根拠が薄い勘の働きのように聞こえますが、私はその人の人間として生きてきた歴史の上に築かれた経験に裏付けられた、立派な判断力と考えています。“良い加減”はその判断力から生まれるものと思っています。私の経験からして、その判断力は、多くても二十%ぐらいの狂いしかないと思っています。ですから直感を信じてよいと思います。つまり易しく生きるコツは直感に従うことです。その結果、間違ったらあきらめるより仕方がありません。その結果も実は自分にとって“良い加減”であったのだと。
私の直感の二十%の狂いの中に、丹沢会二代目会長の玉川さんがいます。玉川さんを診察したのは発病後まだ数日しかたっていないときでした。診察した途端、「これはだめだ」と直感し、その場で奥様に、妻と夫との役割交代、つまり家計の担い手の交代を進言しました。しかし結果は、私の直感はもののみごとに外れ、玉川さんは現職に復帰し、立派に定年まで勤め上げ、その間、フランス語の武者修行にパリに旅するなど、仕事に趣味に誠に“良い加減”な生活を送っておられます。
私の直感の記念すべき例外です。しかしこの例外は、次の私の“いい加減”の判断ミスを少なくする貴重な糧となりました。
このような例外はありますが、しかし大方の“良い加減”は直感に従って良いのではないでしょうか。我々を生かしている大いなる力は、人間の直感が八十%も狂うような、でたらめなものを与えているはずはありません。それは、今ここに生きている、そのことが歴とした証拠です。
最後になりましたが、丹沢会は、一人でも多くの人に、生きている意義と、生かされている尊さとを分かち合えるような会、そして明日を生きる力を与えてくれるような会、今も、そして将来もそういう会であって欲しいと願っています。