<出典情報>
初出 「百合会 会報 第10号」(2000年10月5日発行)
その3:感性と論理をめぐって
石川:日野原重明先生も感性が医療人としての基本だとおしゃっているのは、やはり医者にならなければ、音楽家になるおつもりだった御方だからだと思うのです。丹澤先生も役者であったり、常磐津のお名取りであったり、彫塑をおやりになったりされるから、アートからのご発言なのですね。人生の厚みが治療家としての厚みを増すことになるようですから、さまざまなアートが必要であり、またリベラル・アーツ(liberal arts:教養)も良き治療家となるために必要なことなのでしょう。
●感性を育てる
丹澤:ええ、特に若い人に言いたいのですが、様々なアートに関心を持ってもらいたいと思うのです。
石川:それでは、どのようにすれば感性が磨かれるとお考えでしょうか?
丹澤:環境と教育そして自分自身の気づきと、この三つに大別されると思います。一つにはやはり環境があるかと思うのです。例えば、自然環境に恵まれている所で育ったとか、ご両親が感性豊かな人であったとか、感性を花開かせる人物との出会いがあったとか、教育も含んでそのような大きい意味での環境に恵まれていることでしょう。そして良い環境があるなしにかかわらず、自分で感性を育てる気がないと感性は育ちません。
石川:また「気がない」という気の話しが出てきましたが、日本語にすっかりなじんでしまっています。気はすべての推進力です。中医学では気の働きを五つに分類していますが、推進力はそのうちの一つです。今、先生がおっしゃった感性を育てるという観点からは教育という方法が可能だとお考えですね。
丹澤:そう、まず「その気」がないと物事が始まりません。自分で感性を育てる、自分自身を磨くという意思表示が最低限必要なのです。感覚とは体験で限りなく向上するものであり、何度も何度も訓練することにより一層磨かれるものです。そのためには良き体験が必要となります。質の悪い体験は感覚を悪い方に磨き、磨くわけではなく汚すほうですが、感性を鈍(にぶ)らしていきます。果ては、特異な感性を持った人間に仕立てる可能性すらあります。
ところで、感性には味がわかるとか、香りの違いがわかるとか、音の特性を認識できるとかの主として感覚に訴えてくる感性と、人の苦悩がわかるとか快を感じることができるとかの感情を受容する感性とがありますが、両者ともに五感をとおしてなされるわけですから、感覚性も感情性もこの二つの感性は相互に絡み合い、影響を与えているのだと思います。
石川:感性は知性に対比する語で、知性よりも動物的であって理性的思考を妨げるものとして下位に置かれていたのですが、時代と共に感性の評価が高まってきました。近年では心理学や哲学での重要なテーマです。
丹澤:それは西欧での話ですね。東洋では無意識や身体性の評価が伝統的に高いから感性の位置は決してそんな低いものではなかったはずです。
●自然のなかで
石川:自分の感性を磨くぞ、という宣言が大切であるとのお話ですが、そのあと具体的にはどうしたら良いでしょうか?
丹澤:まず、人は地球に住んでいるという地に足をつけた認識が必要です。都市に住まわざるを得ない近代日本人ですが、できるだけ自然と触れるべきだと考えます。大地の匂いや、森の匂い、また海の匂いをたくさん嗅いで欲しいのです。あなたの出生はまさに自然にあるので、コンクリートの壁から生まれたのではないのです。今の若い人たちには、自分たちが四季の移ろいの中で生きているといった意識はないでしょう?またお米がどのように実るか、落花生がどのようにして実をつけるかも知らないのではないでしょうか?
石川:今の若い人たちだけではありません。おそらく僕らの年齢前後からコンクリート世代です。僕らの年齢は、ちょうど世間を騒がしている難しい年頃の20歳プラスマイナス幾つかの若い人達の親の年代です。ある意味では時代の落とし子であり、仕方のないことでしょうが、確かに先生の指摘する現象が僕らの世代からあるわけです。去年、丹沢麓の川の中州にキャンパーが取り残されて何組かの家族が命を落としました。僕らよりは年齢層の若い人達です。無くなった方々のご冥福はお祈りいたしますが、幼い子供たちへの責任を考えたときに憤懣を覚えるのですよ。残念ながら思慮の足りなかった親のために子供が命を失ったのです。それに一家族ならば撤退したかも知れないと僕は考えています。日本人の集団になったときの危険性もあの事件が象徴的に示していると思えるからです。
丹澤:うーん、中州にキャンプをはるなぞ常識はずれですね。
石川:ええ。それが常識はずれだと教わっていないのではないかと。例えば、子供の時に川遊びをすると、父は、中州は簡単に無くなっちゃうものだぞ、海でも川でも土地の人が泳いではいけないと言った場所では見た目が大丈夫でも決して泳いではいけない、などなどと注意をしてくれたことを思い出します。
丹澤:自然の楽しさも、自然の怖さも、自然に対する敬虔な気持ちも教わっていない?
石川:ええ、そうだと思うのです。また自然に対する敬虔な気持ちこそがプリミティブな宗教観ですが、まさに宗教もそうだと思うのですよ。宗教教育がなされていない。オウムに引っかかるのも一つには親の宗教教育がなされていないからだと僕は考えています。親が無宗教だろうとある宗教を信じていようとも、現実的には地球規模での大事な問題の一つである宗教そのものについて、日本では公私ともに教育がなされていない。
丹澤:私は感性を豊かにする大切なものの一つは自然に触れるということであると考えています。自然との一体感を覚えるというのはなかなか難しい話ですが、幼児や学童の教育期から考え直して、もっと自然の中に自分が生かされているということを確かめていくようにし向けていくということが必要なのだと思います。例えば先ほど自分の若い頃の話をしましたが、挫折感を味わった時など、自然によって慰められ「ああ、自分の周りには自然がある」ということを強く感じたものです。その時、自分の体験としては自然との一体感が生まれるような気がするわけです。その時に意識した自然をどういうふうに表現して、それを自分の中に定着させればいいのか考えるとですね、私はどうしても「宗教」という言葉を借りることが多いのです。
●感性的存在
石川:それは素晴らしいご経験ですね。僕の場合は幾つかバリエーションがあって、挫折感や打ちのめされたときは、ベートーベンと宮沢賢治ですね。
丹澤:ベートーベンのどんな曲を聴くの?
石川:ベートーベンならどれでも励まされます。若い頃はベートーベンでしたが、今はもっと落ち着いた音楽も加わるようになりました。例えば、フランクとかバッハとか。宮沢賢治は詩です。「ああかがやきの四月の底を/はぎしり燃えてゆききする/おれはひとりの修羅なのだ」の『春と修羅』とか、他はベートーベンの交響曲第一から第九までを模した『小岩井農場』という連作がありましてね。先生のおっしゃる自然に対しては恋しくなるという表現でしょうか。仕事に疲れてきた時には、もう恋しくて会いに行きたい、抱かれたいという気持ちでしょうか。
丹澤:芸術が人を感動させるということはそういうことでしょうね。作者は必ずしも人々を励まそうとは思っていないのでしょうがね。時間と空間を越えて人を感動させる。人によって個人差があるでしょうけど。どのような時に、何かによって励まされたり、インスピレーションを受けたりするのかは。ともあれ、それが自然であれ、芸術であれ、芸能であれ、美であれね。人間は生まれながらにして感性的存在であるということです。
石川:ええ、これがまぎれもない人間の存在の一部分であるのに、この事を忘れている事例が多いのですよ。科学派といわれる人たちの頭こんこんちきもそうですが、極端に位置するカルト的な集団もそうです。例えば、身近に本当にあった話なのですが、オウムではないのですが、周りの人々がどんどんある「教祖」に魅了されて行くのです。僕も彼の話がたいへん面白いので女房を連れて数回聞きにいったほどです。そこにある時、中国からの中医師がいまして盛んにメモを取っているのです。興味を覚えて皮肉の意味で「話を信じているの?」と尋ねたら、「いいえ、私は唯物主義です。でも、この人の発想はすごく面白く、参考になる。」と答えていました。まあ、それだけ面白いのです。人を魅了するものは持っている。ところが、聞いているとどうもおかしいのですね。何か大切なものがないと気がついたら、詩がないのですよ、彼の説法の中に。美とか文学とかの感性の部分がまるっきり出てこないのです。
丹澤:それで、石川先生は離れた?
石川:いいえ、まずはその「教祖さん」にその疑問をぶつけました。
丹澤:そしたら、何と答えていました。
石川:はさみで頭の上を切る動作をしましてね。つまり、そんなものは上から繋がった線を切れば良いのだとおっしゃった。(笑)セックスの問題も前に質問したときも同様でした。「性欲なんて簡単です。脳に来ている線を切ってしまえば良いのだから。」と答えた。質問の趣旨をまるでわかっていないのです。感性的存在である人間をまったく無視している。まるで気がついていないのです。逆に言うと、感性的人間の部分をもっていない人だから、そっちの話が説法に入らないのです。まず、それで教祖をはじめこの集団に対して疑念が生まれるのですよ。
丹澤:それでは宗教にならないのじゃない?
石川:ええ、宗教ではなく「○×論理」と標榜しているのですが、限りなく宗教でしてね。1999年3月16日から地球の△□が変わる!と断定的予言を言ったりして、それが魅力的だったりしましてね。言っていることはシュタイナーに近いかな。「論理」なら破綻をきたしてはいけないから、言っていることはせっかく面白いのに、論理としてはとっても危ういので、スピリチュアルの話の論理としてもね。それを僕は心配して、看板を「○×思想」にしたらって言ったんです。そうしたら、このことだけではないだろうけど嫌われましてね。(笑)
丹澤:石川先生、教祖にそのような事を言ったら嫌われるよ。(笑)
石川:ええ、そうしたら案の定総攻撃を受けました。それで30年以上もつきあっていた親友とも別れたし、身近な医師も含めてすっかり向こうのいいなりで、一対大勢というバトルをしました。こっちはまるっきり一人ですから、それはそれは、ずいぶんきつい戦いをしました。精神的なポアーでしたが、中に狂信者がいれば本当にポアーしてくるのではないでしょうか。
丹澤:その団体は大きいの?
石川:いいえ。でも、こちらの業界に近い人がかなり信奉しているのですよ。何人か名前を挙げれば知っている人たちもいるはずです。医師が何人かいるのですが、有名医大の教授クラスがいるのですよ。彼等も決して頭の悪い人間では無いのですが、僕に言わせると感性も論理も共に無いのです。
●癒しは「卑しい」?
丹澤:いわゆる「癒し」系の人達?
石川:ええ、いわゆる「癒し」系の人達です。
丹澤:私も癒しという言葉を時折使いますが、今どき世のブームで簡単に使いすぎるのに違和感を持っています。山折哲雄さんは「癒し」は日本人の近代を生きる覚悟が崩れたところに現れた「卑しい言葉」だと言っています。
石川:癒しという言葉を非常に大事にしている人ほどそう感じるのではないでしょうか。今の「インスタント癒し」風潮や「癒しグッズ」に違和感を覚えるのではないでしょうか。僕なんかもイヤですね。もう少し言葉に対するセンスや、行動と発言に品性があって欲しいものです。何しろ世の中にニセモノの方が多いからホンモノという言葉があるぐらいなのですから。(笑)
丹澤:ところで先生はどこでその教祖を知ったの?
石川:知人の医師の紹介で、面白い人がいるよって。その教祖は医師を利用したいフシが見えていましたから、かなり親しい関係にいまして、紹介されて僕も何回か身近にお会いすることが出来たのです。説法自体は、先ほど言ったように、たいへん面白いし有意義な話しも多いのです。これはこれで認めなくてはいけません。
丹澤:それで、教祖に直接いろいろ質問をした、というより批判をした?(笑)
石川:いいえ、いいえ。医学だろうが宗教だろうが道を求めているならば、全うに答えなくてはいけません。もちろん相手のレベルをみて答えるでしょうが。ところが、僕の経験では論理で答えられなくなると、怒るか、相手を消すのですね、日本では。宗教だけの世界ではなくって。消し方はいろいろあるのですが、無視したり、社会的に葬ったり、本当に消したりして。
丹澤:日本人はディベート(debate:討論)がへただから。相手の人格攻撃になったり、逆に人格攻撃であるととらえてしまう。でも、石川先生はよくもちこたえましたね。まるで一人になったのでしょ?
石川:ええ、実はこれが初めてではないのでして、教祖級との戦いはすでにこれで3回目です。(笑)
丹澤:ワッハハハ、やっぱり。しかし、これらの問題は根深いのですが、ひとつには教育の質に帰するのではないのかな。日本の教育の問題ですけど、まあ医療に限っても、教育は欧米より著しく遅れているのを認めざるをえません。
●論理教育とシミュレーション教育
石川:今三大新聞が医療の問題をキャンペーンのようにして取り扱っていますが、その関連記事の中で八尾総合病院院長が臨床の基礎トレーニングの重要性を50年間放置した国とアメリカのようにきっちりとやってきた国との差は厳然たるものがあると言い切っていました。また、日野原先生も著書の中で日本の病院は半世紀遅れていると述べています。しかし、鍼灸界はもっと遅れている。
丹澤:そのとおりだと思いますよ、医療界も鍼灸界も。
石川:アメリカのある小学校ではディベートの授業があって、子供たちに自由に討論させている。人格攻撃の類や非論理的になったら教師が注意をするのですね。例えば白人の子がヒスパニックの子に「お前の親父は税金をちゃんと払っていないくせに」と言うと、教師がすかさず間に入って「今の意見はこの討論とは関係ない」と指摘するのです。でも、寂しいことに僕が幾つか作ったNPO(nonprofit organization:非営利団体、市民活動団体)での話し合いのレベルは実にこの程度なのです。「お前働いていないくせに」とか「あの時出席してないくせに」とかいう議論が思ったより多いのです。「働いていないこと」や「出席していないこと」や「税金を払っていないこと」と、ある議題の善し悪しを話し合う内容とは関係ないのに、日本では往々にして関連づけられるのです。ロジックではなく情緒的に繋がるのですね。残念ながら向こうの小学生レベルです。
丹澤:今の話はふたつの部分を含んでいますね。本だけで学ぶのではなく体験教育とかシミュレーション教育がしっかり行われていること。今のディベートの授業は社会人になったときにいかにうまく社会とコミュニュケートするかの訓練です。もう一つは議論や推論に必要である筋だった論理を学ぶということですね。最初のシミュレーション教育ですが日本ではたいへん少ないのが現状です。特に医学教育にはもっと多くのシミュレーション教育が取り入れられた授業が行われなくてはいけません。しかし、オスキーが医学部教育に広まりつつあるので、今後は少しずつ増えていくのではないでしょうか。ところが問題は鍼灸界です。
石川:卒後教育がぜんぜんない。
丹澤:ええ、卒後教育という社会教育の問題も大きいのですが、卒前教育が医療人の教育としては十分ではないのです。PT(Physical Therapist:理学療法士)や看護婦は卒業前の半年間は完全に医療の現場に放り出されるわけです。ところが鍼灸師の教育過程では医療現場に接する機会はまったくありません。鍼灸は実際に社会に出た段階でPTや看護婦の職種と同様に、医者以上に病者に親密に接する医療ですから、何とかして卒前教育で取り入れていく必要があります。
石川:先生はそのためにオスキーを大学や後藤学園で取り入れるようになったわけですね。
丹澤:私が学生を育てるために重点をおいていることは、ほとんどがシミュレーション授業です。これからの世の中は、老人疾患や慢性疾患の患者さんが体調維持のために鍼灸治療に訪れる機会が多くなってくるはずです。そのことを卒前教育でどうしたら良いのか思案したらシミュレーションの教育という方法以外にはないと考えたわけです。
●直感とは
石川:だいぶ前からお考えになっておられましたね。冒頭、先生は医療の本質的な部分を一足早く歩むと申し上げましたが、今度の場合もまさにそれでした。
丹澤:でも、私自身にけっして特別なノウハウがあったのではなく、必要があってやってきただけでしてね。そうしたら、これこそが先端的な教育なんだということがわかってきたのです。
石川:必要があって行動していた先に本質的なものが見えてくるのは、僕はまさしく感性や直感がそれを掴むのだと思うのですが。
丹澤:直感は非科学的なものだととらえがちですが、私はけっしてそうは思いません。自分の意識下で積み上げられてきた経験の集積から生まれてきているもので、目の前の状況を判断したり、知識を生み出す能力といえます。それは自分にとってはまことに論理的なものなのです。
石川:それとまったく同じことをあのアイシュタインが述べているのですよ。「知性でなく直感が新知識の生みの親だ」と断言しています。
丹澤:そうでしたか。それは心強いな。(笑)
石川:しかし、オウムの信者だった医師達を始め、真面目だけが取り柄の人達は直感がはずれましたが。
丹澤:ええ、その前に感性がなければいけないと思うのですよ。美しいものを美しいと感じたり、人の苦悩や自分の楽しみを感受できる感性がないと、ほんとうの直感は育たないものだと思います。感性に導かれた直感でなければ。そして、美しいものを美しいと感じたら、それを表現することです。自分流のやり方でね。それが感性をより磨くことになるのです。
医のこころ、鍼のこころ【完】