<出典情報>
初出 丹塾主催 鍼灸師育成シンポジゥム 第二回 信頼に足る鍼灸師を目指せ 【第二部】見えるものと見えないもの(2016年5月5日,成城ホール)

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「続・鍼灸の風景」―[臨床における[気]・時間・空間論]― その2

《雑念勝手論その1 鍼灸臨床を[気の差分]で解釈する》

では、臨床の話に移ります。先ほど[東洋医学では病態も生の一環としての生体反応―[気]の消長―として肯定的―ポジティブに―に捉える]といいましたね。それでは実際の臨床で患者さんの[気]の消長をどのようにとらえているのでしょうか。ここからは私の雑念勝手論になりますので、そのつもりでお聞きください。
治療者が持っている[気]、これを平人の[気](あるいわ平然の[気])―質・量とも―と考えてください。患者さんが来ました。東洋医学の治療者はほとんど無意識のうちに、しかも習慣的に、眼前の患者さんが持っている[気]と自分が持っている[気]とを天秤にかけて質・量の差を感じ取っている、引き算をしていると言ってもよいでしょう。その結果[気]の差分を感じ取り、差分がプラス(平人の[気]の方が多い)であれば虚を、マイナス(患者の[気]の方が多い)であれ実と、感じ診て取っていると私は考えるのです。要するに、双方の[気]を引き算して患者さんの[気]の過不足を計り、四診によって[気]の動態を観察・評価しその結果を治則に反映させる、ということではないかと思うのです。
治療の主眼はホメオスターシスを活性することですよね。老年医学会での『老化を考える』と題する基調講演(今堀和友氏)の中で、老化を[エントロピー増大]という観点から説明されていることを知りました。その時、ホメオスターシスの活性とはエントロピー増大の抑制効果と表裏一体であると直感的に認識しました。エントロピーの話はとても長くなりますので割愛しますが、興味のある方はネットで探してください。納得がいくと思います。
以上の認識は、従来から主張してきた鍼灸の養生療法(医療効果)の語頭に、積極的という言葉を冠する至当性を保証するものと考えています(スライド参照)。
積極的養生療法、この語彙は、[生]の健常部分を殖やし、[未病]の層を病態の方に押しやって病態部分を減じていく―エントロピー増大を制御する―鍼灸治療本来の面目・本質(治効力)を言い表しているものと考えます。私の勝手論ですが、鍼灸医療とは、患者さんと治療者の、[気]の差分という『見えないものを、見えるように意識化して行う臨床』といえるのではないかと思うわけです。これは残しておきたいコトバです。
鍼灸臨床を実践する中で、「うーん、そんなようにも思えるな・・」と、同調してくださる方がおられるとすれば、大いに多とするところであります。
具体的には、あるきまった患者さんに鍼治療をした後で大変な疲労感に襲われることがあります。自分の[気]が吸い取られたような感じが残ります。逆に患者さんの[気]が自分の体を通して外界に抜けていく感じの患者さんにも遭遇することがあります。鍼体を通して患者さんとの[気]の交流を経験した方は、私の勝手論に頷いていただけるものと思っています。
患者さんとまともに対面もせず―顔もろくに見ず―、ディスプレイ上の検査値を告げて患者さんに病態の認識を促すだけの現代医学の臨床では、[気]の交流などは論外で、ましてや養生医療とは全く疎遠です。その疎遠の場こそ鍼灸医療の独壇場であり、積極的養生療法の医療的価値が発揮できる場なのです。

《雑念勝手論その2 散じた[気]は霊気となる》

さて後回しにしていた、散じた[気]は一体どうなるのかの話に移りましょう。
勝手論からすると、結論として散じた[気]は[霊気]と呼ばれるものになると考えています。この[霊気]は千の風になって飛んでゆくものではない。私も千の風になって世界旅行をしてみたかったんですが、そうはいかない。[霊気]は大気中に拡散するのですが遠くへは飛んでいかない、決して風土からは離れないというのが私の主張です。とすると、私に言わせれば例の歌は、大変インチキな歌です(一同笑い)。

《雑念勝手論その3 [霊気]は民族性の根源》

我々は大気を吸い込んで、ただの酸素をいただいて生きていますね。でも酸素だけではなく大気の中に含まれている[霊気]も吸い込んでいると思うのです。風呂に入れば湯気を吸い込んでいるのと同じことです。ですから風土の中で呼吸をして生きていること自体が非常に大切なことだと思っているわけです。呼吸は心身の形成にあずかっている事は間違いないし、DNAに対する影響も出てくるはずです。ですから、『風土の中で呼吸をしている(いきしている)そのこと自体が、民族性を育む根源』ではないか、と私は考えるのです。暴論と言われるかもしれませんが、私はそう思うのです。これも残しておきたいコトバです。
この考えは風呂に入って湯[気]を吸った瞬間浮かんできたもので、(一同笑い)あぁ、そうだったんだ、日本の国土に住み、そこの大気を吸っているから日本民族なんだと勝手に納得したわけです(スライド参照)。
この勝手論、いかがでしょうか。今夜お湯につかって湯気を吸いこんだ時に、老骨が言ったと思い出された方は、この勝手論を吟味・批判してくだされば幸いです。 ところで、この[霊気]は音に非常に敏感だと思うのですね。皆さんが神社に行ってお辞儀をするだけではなく、鈴を鳴らす、柏手を打つ、お寺へ行けば鐘をつくでしょう。僧侶が経をあげるときは鐘を鳴らし木魚を叩きますね。修験者は法螺貝をたからかに吹きあげます。[霊気]はその音に反応して集まってくるのではないかと思うのです。音を出せば[霊気]は必ず来てくれる。家には神棚があり仏壇があり、お寺にはお墓がある。方々で音を出せばその音に向かって[霊気]は走る。忙いのなんのって朝から晩まで駆けずり回っている(一同笑い)、風土を離れる暇なんかとてもないというのが私の勝手論の中にあります。
[霊気]はご存知のように、昔から[魂]と[魄]に分かれていると言われています。古い時代です。易経には『魂は陽に属して天に帰す』とあります。道教では『魂は精神を支える気』と言っています。魄は『魄は陰に属して地に帰す』と易経にあり、道教では『魄は肉体を支える気』、とあります。先ほど紹介した朱熹によれば、[生]とは『魄と魂の結合』であり、[死]とは『魄と魂の分離』で元に戻らず不可逆であると言っています。しかし私は不可逆とは思っていません。しばしば[魂]と[魄]とはくっつくと思っています。そしてくっつくと「かたち」になるんですね。通常その「かたち」は見えないんですが、特定の人は見えるようで、代表的な[かたち]は[幽霊]です。
『うらめしや 魂魄この世にとどまりて 恨みをはたさでおくべきか』幽霊の決まり文句ですが、幽霊の正体は魂魄がくっついた[かたち]であることを語っていますね。古くから幽霊は絵画・能・伝統芸能・物語の主題に取り上げられ、日本文化にれっきとした居場所を持っています。
たまたま、今年の3月10日の読売新聞の編集手帳欄に、こういう記事が載っておりました。
この季節つまり3月10日の季節、きまって脳裏をよぎる五行歌がある。
「霊能者という人に、
本当に霊がみえるなら、
東京なんて一歩も歩けないと、
東京大空襲の
生き残りの父」
胸を衝かれる記事でした。
と同時に、空襲の記憶がにわかによみがえってきました。私は終戦の歳の3月10日(罹災者100万人を超えた)と5月24日~26日の大空襲の時にも東京におりました。3月の下町が大空襲(下町空襲と呼ばれる)にあった翌朝のことです。近しい親戚宅が下北沢にあったので、「お前、安否を尋ねてこい」という親父の命令で、ゲートルを巻き防空づきんを冠り水筒を背負って自転車で出かけました。目的地は我が家(東京市の時代の淀橋区にあった)の真南の方角にあたるので、途中、都心から西へ向かういくつかの街道を横切って進むことになります。その日、甲州街道を横切ろうとしたときに目のあたりにした光景はいまだに脳裏に焼き付いて消えません。焼け出されて一刻も早く郊外へ逃れようと、衣服は焼け焦げ、髪はざんばら、目はうつろで、はだしの人も散見でき、それぞれに鍋を下げ布団を背負い、ひたすらに西に向かって呆然と歩き続ける、全く生気を失ったかに見える大群衆の列に行き当たったのです。まさに亡者の行列に見間違うほどで、ぞーっと身の毛がよだったのを覚えています。その列を横切るのに、身の丈ほどの深さの川を自転車を頭上にかざして渡るような難儀さを感じたこともこの身がよーく覚えています。もし霊が見える霊能者がいたら多分、「列の間には、亡くなられた方の霊で埋め尽くされていた。難儀さを感じたのはそのせいなんですよ」と告げてくれたであろう、と、先の五行詩は私に語り掛けてくれたように、いま、思っています。

《雑念勝手論その4 [魂]と[魄]をくっつける接着剤》

もう一度、幽霊の決まり文句に還ります。『うらめしや 魂魄この世にとどまりて恨みをはたさでおくべきか』。ところで、この[魂]と[魄]とはどうやってくっつくんでしょうか。文句から察すると恨みを果たす目的のためにくっつくようですね。そうなんです。[恨み]とか、[怨み]、[嫉み]あるいわ[未練]など、いうならば[今生の執着]が接着剤となって[魂][魄]がくっつくんではないかと思うんです。これはあくまでも私の勝手論ですが・・。
じゃあ、この接着剤をどう扱ったらいいのだろうか。接着剤と思しきものの内容をどうのように察知し、どのように取り除いたら安神(神とは精神を指す)の道へ導くことができるのであろうか。残念ながら、医学教育ではこの方面の知識の涵養、ならびに方法論的な教育は全く無いんですね。鍼灸教育についても同じことです。ですが、その教育が必要だということについてこれからお話しします(スライド参照)。

《雑念勝手論その5 [気]を安んずること・者―1》

私に言わせますと安神の道へ導く方法は、一言でいうと[[気]を安んずる]ことに尽きると思っています。そして人生における[気]を安んずる最終的な領域は医学が及ぶ領域ではないんです。その領域は宗教が司る領域に接していて、その領域を司る者は宗教人であるべきと考えています。プロの宗教家であればそれに越したことはありませんが、あえて宗教人の人を使うわけは、その道のプロを表現する[者]とか[家]は使わずに、宗教を理解しているアマチュアで十分であるという意図によるものです。そして勝手論を進めるにあたって、ここで『安気』という新語を作らせて頂きました。『安気』を司る宗教人を『安気者』と呼ばせてもらいます。

《雑念勝手論その5 [気]を安んずること・者―2》

『安気者』になるための条件があります。それは自分の[平然の[気]]を養っていかなければいけませんね。養っていくことを、[調気・養神]と名付けて、丹塾では例会の開始前に、15分間椅子に座った姿で座禅をします。[気]を丹田に集めるという行為を終えて例会の授業に臨む、ということをしています。これはひとつの[儀式]です。こういうことに類した[臨床における儀式]は非常に大切である事は、長年臨床をやっていらっしゃる方はうなづかれると思うんですね。私が長くお付き合いしていた、大変有名な鍼灸師ですが、その方の内弟子時代のお師匠さんは毎日決まって治療室に入る前に神棚にお参りをされていたと聞きました。ある時「一体何をお祈りしてらっしゃるんですか」と聞いたそうです。そしたら「今日も腰痛以外の患者さんが来られないように・・どうぞ」とお祈りしているんだと言われたそうです。(一同笑い)、これもその先生の[気]を整えるために欠かせない大変重大な[儀式]なんでしょう。[作法]とも言い換えてもいいのではないでしょうか。こういう事は非常に大切なんですね。奈良康明という大変偉いお坊様がいらっしゃいますけれども、ご著書の中に『心があれば形に出ます。仮に心がととのっていなくても、形をとることによって心も定まるということは日常よく経験することです』とあります。神社に参って、二礼二拍手一拝の作法をします。願い事を聞いて下さるためにはその作法を踏まないと何となく不安だし、ご利益もなさそうで安心できない。よくよく考えてみると自分の心がそれで満足するということですね。作法というのは非常に大切なんです。臨床の流れも作法の連続とみれば、その臨床の流れ(作法の連続)に患者さんが身をゆだねる事によって患者さんは安心するんですね。作法の中には[段取り]も含まれるでしょう。何事も段取りがぎくしゃくしていると不安になりますよね。患者さんの身になって、自分の臨床が作法に則って流れているかどうか、じっくりと振り返ってみてください。
患者さんの[気]を安めるには、臨床の作法に則った[場]をしつらえ、提供することだと心得てください。
関係した某学校で卒後研修塾を始めましたが、私の授業の前には15分から20分、座禅を組ませました。授業に臨むための[調気養神]の作法・儀式です。丹塾でも同様な儀式を行っていますが、その意味するところは自分自身の精気溢れる[場]を創造することにあるのです。

【臨床における時間・空間論】

では、次に[臨床における時間・空間論]に移ります。 読まれた方はいると思いますが、本川達雄氏が書かれた『ゾウの時間ネズミの時間』と題する本があります。この本はベストセラーになりまして、今は15版以上になったのではないでしょうか。その一節を紹介します。
『ヒトの時間感覚は外部の時間を敏感に計れるものではなさそうで、頭の中の時間軸は、自分に固有の時間軸しかないのであろう。時間に関しては、ヒトは外部に閉ざされた存在だといえるのではないか。』
-中略―『もしヒトがもっと時間感覚が発達した生き物だったら、対象物にあわせていろいろな時間軸を設定でき、世界をもっと違った[目]で[見ていた]はずである。時間と空間の関係式も、簡単に[発見]できたに違いない。』
とあります。
このくだりの中で、『頭の中の時間軸は、自分に固有の時間軸しかないのであろう。時間に関しては、ヒトは外部に閉ざされた存在だといえるのではないか。』の部分はよく頭の中に留め置いてください。
通常、時間は流れている、と認識した場合、その流れは、自分の中にあって、客体に流れているという事は全くと言っていいほど意識をしていないものです。時・空という認識は際立って主観的なものなのです。先ほど頭の中に留め置いてくださいといったことばは、そのことを指摘しているのです。
3年前になりますけど、丹塾の正月の例会で、高梨さんに司会をして頂いて、[臨床死生観考]と題するシンポジウムをやりました。録音起こしをして一冊の本にまとめました。その28ページにある私の発言を要約します。
『人間には二つの時間があると言われている。一つはdoingの時間で、もう一つはbeingの時間、こういう二つの時間がある。doingの時間とは数値化できる。beingの時間とは数値化できない。臨床でいえば、doingの数値化できる時間というのは医療者の時間。beingの数値化できない時間というのは患者さんの時間、と心得てもらいたい。従ってdoingの時間というのは主観的なものであるが、beingの時間というのは客体の時間であって、二つの時間のそれぞれが持っている質は全く違う。その事を医療者はっきりと意識すべきである。医療者の教育課程では、一般教養課程の中であるとか、あるいはバイオエシックスなどの中で触れられて、たとえ知識として知ってはいても、臨床に携わって、その場になるとなかなかこの事情は分からない。くどいようだが、医療者の時間と、相対する患者さんの時間とは、質的には全く違うんだという事を、どうぞ頭によく入れておいて欲しい。そして、doing・beingの間には見えないけれどもドアがある。医療者は見えないドアを意識的に開いて、いったん自分の時間を無の状態にして、患者さんの時間の質を懸命に探る。探り当てて、初めてそこで真の共感が生まれる』 以上ですが、今日はたまたそれを繰り返すということになったわけです。で、今申し上げたことを図式化して見ます(スライド参照)。
スライドに時計が見えます。時計が刻む時間は、人間が勝手に数値化したものです。とすると、そうでない時間というものは別にあるんだろうと思われます。ニュートンの絶対時間説は否定されましたけども・・。宇宙時間なんていう時間もあるのではないかと・・・。まあ、それはそれとして、患者さんの時間(beingの時間)は数値化できないんですね。つまり通常の時計では表現できない時を、通常の時計と対比してどのように視覚的に訴えたらよいかと考えた時に、ふっと頭に浮かんだのがサルバトール・ダリの『融解する時間』という絵でした。この絵はダリが原爆時代を考えて書いた絵だといわれています。doingと違う時・空、それを表現するのには、このダリの絵が一番良いんじゃないかと思って紹介しました。で、スライドの絵の中央にドアがありますね。本当は見えないんですが、ここでは見えるように書いてあります。このドアを開けて患者さんの時空に入り、その質を細かに探る。探ってみるとまず、患者さんの時・空はいたって非時系列的であることに気が付くはずです。つまり、事象は前後錯綜し、過去・未来の歴然たる境がなく総じて現在形で並立しているのです。その事象を医療者のdoingの時間で理解しようと思っても、それは到底無理なんですね。どうしたらよいか。それは一旦doingの時間を捨て去るか、時間から抜け出して、doingの時間を無にする。無になって患者さんのbeingの時間に飛び込み、極端な言い方をすると同体になる。あるいは同体に近い状態になって患者さんの現在形で満たされている事象(時・空)を読み取る努力をすることです。しかし、言うは易く行うは難しいことです。この間の事情を納得してもらうためのうまい比喩はなかろうかと考えている時でした。たまたま卓球の世界選手権で日本のチームが団体優勝したニュースがテレビで流れていまして、チーム・キャプテンの福原愛ちゃんに向かってキャスターが、キャプテンとしての苦労話を聞いている場面でした。チームをまとめるには、色々苦労があったでしょうが、どんなことをしましたか、という質問に、即座に『こころの温度を一緒にするように努めました。』と答えたのです。それは考えることなく即座にでた答えでした。聞いて咄嗟に、「やぁ!!これはすばらしい言葉だな」、と感銘すら覚えました。
自分の時間を無にして、患者さんの時・空を読む
残しておきたいコトバです。ですが、正直なところ、愛ちゃんのコトバの方がピンと響くんじゃないか。という事で、書き留めておいて、ご紹介に及んだ次第です。
共感は患者さんの時・空を読むことで生まれます。石川先生のお話もありましたが、患者さんの物語を時系列的に編集してお互いに共有する。時・空を共有すると言い換えてもよいでしょう。そして共感は「信」という素地があってこそ初めて萌芽することも忘れないでください。
そのことに関連して、某書(若松英輔著『叡智の詩学 小林秀雄と井筒俊彦』p133)に以下のコトバを見つけました。紹介しておきます。
「この世に病気は存在しない。病人がいるだけだ」と、あるとき名医といってよい人物がいった。続けて彼は、現代医学は証明できない苦しみと痛みを、あたかも無きがごとく、その世界観を構築してきたが、真実の医療があるとしたら、まず、患者の苦痛を信ずることから始める以外に道はないともいった。
覚えておいて欲しいコトバです。
[信]は、私の提唱する恕の臨床、思いやりの臨床の出発点なのです。

《雑念勝手論その6 気の消長と時・空との関係論》

さて、私が考える通常の人の一生における[気]の消長と時・空の関係(これも勝手論)を図式化してみました。[気]の消長―粗密状態―は色調の濃淡で示しています。また時間は通念上の流れるものとします(スライド参照)。
若年期の空間(場)は[気]の密度が濃厚で、時のながれを贖(あがな)います。ために時間の密度は空間のそれより勝った状態になります。壮年期になると、[気]も時・空も平生といわれる均衡した安定状態で落ち着きます。老年期になると[気]の密度は疎になり、時は抗せずして流れを早め、ために空間の密度が時間のそれより勝ります。歳を取ると時の立つのを早く感じるという経緯は、こんな説明で納得できるのではないかと思うのですが、いかがなものでしょう。昨年は私、68才でした。が、今年は一挙に78才になりました。10年ひと昔とは早いものです・・・。(一同笑い)
ジャネーの法則というのがあります。
『主観的に記憶される年月の長さは年少者にはより長く、年長者にはより短く評価されるという現象を心理学的に説明した』
ものです。
『簡単に言えば生涯のある時期における時間の心理学的長さは年齢の逆数に比例する(年齢に反比例する)。例えば、50歳の人間にとって1年の長さは人生の50分の1ほどであるが、5歳の人間にとっては5分の1に相当する。よって、50歳の人間にとっての10年間は5歳の人間にとっての1年間に当たり、5歳の人間の1日が50歳の人間の10日に当たることになる』
以上フリー百科事典ウィキペディアより。
歳をとると、月日の足早をことさらに感じる道理がよくわかりました。
そして最終の死は時間を失い(失うというより、過去がいつでも現在に立ち戻れるという、通念上の時間の流れには見られない現象をもった時間概念といった方が良いかも・・・)空間だけの場になるものと想像しています。が、想像だけであって実際のところは分かりません。以上、人の一生における[気]の消長と時空の推移を別な言葉で表現しますと、先ほど述べた [エントロピーの増大]になります。
忘れないためにここで言っておきますが、この時・空の推移は生物における必然ですが、この推移を制御する―遅らせる―対策。その対策の本命の一つが鍼灸医療であり、その理由は鍼灸に託された積極的養生療法にあると私は思っています。
ここで先のスライドの老年期の部分を拡大して示します。Dead lineに向かう領域を受け持つのは主として緩和医療と終末期医療・終末期ケア―最近は、エンド・オブ・ライフケアとい言葉に代わりつつあります。終末というのは、最終電車のイメージがあって、あとは無いんだ、というイメージが強く、同じ事なんですが横文字表記・カタカナ表記の方がイメージを弱める効果があるというんでしょうね―です。先にも触れましたが、この領域を[医療の領域]と呼ぶことにします。Dead lineを超えると、遺族に対するグリーフケアだとか、鎮魂を受け持つのは主として宗教です。で、この領域を[宗教の領域]と呼ぶことにします。 ところで[医療の領域]と[宗教の領域]との境は、Dead lineという一本の線状で劃せるのものでしょうか。私も、そして皆さんも、決してそうは思わず、Dead lineに先行して接する、ある幅をもった移行帯ともいえる領域があると思っている。さらには、その思いの中にはそういう領域の存在があって欲しいという思いをも含まれているはずです。あたかも東洋医学における健常と病態との間に未病という概念を挟むがごとくに・・。
私はこの移行帯(スライドの濃いブルーの帯)ともいえる領域には、その人の生きざま、言い換えれば人としての尊厳が隠されていると考えているのです。尊厳の中身には、己がこの世に存在した証(あかし)を、己に問うて確かめる心の作業と、その証を他者にも確かめてもらいたいという切なる願望も含まれていると思うんです。[医療の領域]を受け持つのは医療者、[宗教の領域]を受け持つのは宗教家であることは言うまでもありませんが、さて移行帯の領域を受け持つもは誰でしょうか。

《雑念勝手論その7 『安気の領域』と司る者 》

ここで雑念勝手論の最後にたどり着きます。
私が思うのには、この領域を受け持つ(司る)専門家は居ることに越したことはありませんが、特に居る必要はないと思っています。では誰かというと、医療者であって宗教的素養をもっている人(宗教人)、または宗教家であり医療的素養を備えている人というのが私の考えです。そしてここが医療と宗教とが協働できる、コラボレートできる領域であるし、コラボレートしなければならない領域だとも考えています。私はこの領域の存在と意義とを、医療・宗教の両面から真剣に考えなければいけない時節になっていると思うのです。
佐々木宏幹氏は著書『神と仏と日本人より』の中で、この領域を『医宗一如』と名付けられています。誠に的を射た命名だと思います。
で、私はこの領域を、[気]を安んずべくする『安気の領域』と名付けました。この領域での[気]の有様が無秩序であると、人は底知れぬ不安と孤独に陥ります。無秩序を秩序足らしめる力は医療にはありません。宗教(ここでいう宗教なるものは、なになに教とか、なになに宗派とか、そんなせせっこましいものではなく、人知では測れない大いなるもの・または力と考えてください)に頼るしかありません。なぜかといえば、宗教そのものがすなわち秩序だからです。すべからく医療人はこの領域の存在と意義とを確知して、エンドオブライフケアではこの領域に架橋し[気]を安んずる方法を学び、[安気者]になるよう努めなければなりません。一言でいえば宗教人であれということです。宗教人とは、宗教のプロではなくアマでよいという意味です。私は以上のことを認識していることが即、宗教人たる素養につながるものと考えています。
我々は[気]を吸って生きている。霊[気]を吸って民族性を得、保っていることを《雑念勝手論その3[霊気]は民族性の根源》でお話ししました。
正月には初詣といって神社に参る。願い事があるとその筋の神社仏閣に参って手を合わせて祈願する。八百万の神はことさらに否定することなく、民俗は宗教性を帯びて日常生活に溶け込んでいる。要するに日本民族は、祖先の霊気を吸って生得的(アプリオリ)に習合宗教(シンクレティズム;神仏混淆)の宗教性を持っていると、私は思うのです。
ですから、極言すると、『安気の領域』の存在とその意義とを内省的に確認できたら、それをもって”われは宗教人たり”と自認してもよろしいと思っています。その気づきさえ与えない医学教育現場は嘆かわしいものです。せめても卒後教育での啓蒙を心がけているところです。
私が前世紀末から叫んできた[二十一世紀に望まれる鍼灸師像]があります。
1.感性豊かな臨床家
2.思想をもった臨床の実践者(患者さんのQOLを視点の中心に据えた臨床)
3.今日的医療人(現代医学と協働できる医療人)
です。今日は以上の三つに、
4.[気]を安んずる安気者
5.時・空を読める宗教人
の二つを加え、[時代を超えて望まれる鍼灸師(医療人)像]とします。そしてこのコトバは、残したいコトバに加えます。
さらに残したいコトバがもう一つあります。前世紀から、鍼灸治療の目指すところと実践について、言い続けてきたコトバです。
患者さんに、
生きているということの
素晴らしさを
実感として与えることが
できる治療者
以上で私の話を終わらせて頂きます。有難うございました。ご清聴を深く感謝します。